NFAJ Digital Gallery – No.6
公開日:2014年4月8日
第6回 戦前期日本の映画館写真(4)―京都篇
20世紀最大の娯楽産業として君臨してきた映画―それを担ったのは、昭和初期までに各地に建設された豪奢な映画館の数々でした。大衆を惹きつけるその堂々たる建築、そして華やかな宣伝装飾は、娯楽の王者としての映画の圧倒的なパワーを象徴しています。「戦前期日本の映画館写真」第4回は、東京と並ぶ日本映画の中心地である京都を取り上げ、映画館がひしめいた新京極のほか、河原町や西陣のモダンな劇場建築をご覧いただきます。なお、このシリーズの写真はすべて国立国会図書館からの寄贈によるものです(社団法人日本映画連合会旧蔵映画公社資料)。
新京極 京都座(1936年) Kyotoza Theater, Shinkyogoku (1936)
写真/Photo
京都座は中京区新京極三条下ルにあった松竹直営の封切館。上映作品は『入婿合戦』(野村浩将監督、1936年)、『踊る名君』(井上金太郎監督、1936年)。『踊る明君』に出演した高田浩吉実演の案内も見える。京都座は1900年に弁天座として開場、演劇や映画などを上演していたが、1933年12月末に松竹キネマの封切館となった。第ニ次大戦後は東映などの封切館となり、その後名称も京都ロキシーと改めたが1999年に閉館。現在はその場所にはシネコン「MOVIX京都北館」がある。
新京極 松竹座(1935年) Shochikuza Theater, Shinkyogoku (1935)
写真/Photo
松竹座は中京区新京極三条下ルにあった松竹洋画系の封切館。元は明治座として演劇の劇場であったが、1924年に松竹座と改称、洋画封切館として新築開館。写真は1935年10月1日の新装開館時のもので、上映作品はアメリカ映画『噫無情』(リチャード・ボレスラウスキー監督、1935年)とハンガリー映画『ペーテルの歓び』(ヘルマン・コステルリッツ監督、1934年)。2001年まで映画館として興行を続けたが、現在その場所にはシネコン「MOVIX京都南館」がある。
Showing an American film "Les Miserables" and a Hungarian film "Peter".
新京極 松竹劇場(1938年) Shochiku Theater, Shinkyogoku (1938)
写真/Photo
松竹劇場は中京区新京極六角上ルにあった松竹直営の映画館。1938年4月29日、新興キネマの封切館であった夷谷[えびす]座を改装して開館。略称を「松劇」といい、開館時の作品はアメリカ映画『オーケストラの少女』(ヘンリー・コスター監督、1937年)で当時としては珍しく1本立てで20銭均一であった。夷谷座は明治初期から存在した由緒ある芝居小屋。1954年、京都ピカデリーと改称、1967年には京都ピカデリー劇場として新築開館した。
Opened in 1938 with an American film "One Hundred Men and a Girl".
新京極 東活倶楽部(1931年) Tokatsu Club Theater, Shinkyogoku (1931)
写真/Photo
東活倶楽部は中京区新京極六角下ルにあった東活映画直営の封切館。上映作品は羅門光三郎主演の『薩南大評定』(後藤岱山ほか監督、1931年)。この場所は1911年開館のパテー館を始めとして代々映画館だったところで、朝日館(日活系)、パラマウント館を経て、1923年には「マキノキネマ」と改称、牧野省三率いるマキノ映画の封切館となった。その後、1931年10月に改装して東活倶楽部となった。
新京極 国際映画劇場(1938年) Kokusai Eiga Theater, Shinkyogoku (1938)
写真/Photo
東活倶楽部は1933年に一般より館名を募集して朝日倶楽部と改称、更に1938年3月、国際映画劇場となった。第1回上映作品はフランス映画『赤ちゃん』(レオニード・モギー監督、1936年)ほか実演とニュース映画。1943年に「京極日活」、1954年に「京極弥生座」と改称、その後、改築を経て「新京極シネラリーベ」として興行を続けていたが、2013年に閉館した。
新京極 花月ニュース劇場(1938年) Kagetsu News Theater, Shinkyogoku (1938)
写真/Photo
花月ニュース劇場は中京区新京極蛸薬師下ルにあった吉本興業経営のニュース映画専門館。1938年4月、漫才小屋であった芦辺館を改装して開館。ニュース映画の合間に新人芸人による「ニュース漫才」などを行った。
新京極 帝国館(1935年) Teikokukan Theater, Shinkyogoku (1935)
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帝国館は中京区新京極錦小路上ルにあった日活系の封切館で、開館は日活創立の翌年に当たる1913年。掲載写真は1934年12月31日の新築開館時のもので、上映作品は正月映画『新選組 前後篇』(稲垣浩監督)。高島屋より寄贈された派手な館前装飾「三番叟 片岡千恵蔵」「丹下左膳 大河内傳次郎」が目を引く。帝国館は1943年に「帝国映画劇場」、1945年に「京都日活映画劇場」と改称、長く新京極における日活映画の封切館として親しまれたが1971年に閉館した。
新京極 帝国館(1938年) Teikokukan Theater, Shinkyogoku (1938)
新京極 京極映画劇場(1938年) Kyogoku Eiga Theater, Shinkyogoku (1938)
写真/Photo
京極映画劇場は中京区新京極四条上ルにあった松竹系の映画館。略称を「京映」といい、古くは1900年に開場した「歌舞伎座」にまでさかのぼる。当初は歌舞伎や連鎖劇の合間に映画も上映したが、1920年に松竹映画封切館となった。1936年の火災の後、新築し「京極映画劇場」と改め、同年12月31日に開館。掲載写真は松竹傘下の新興キネマの封切館当時のもので、上映作品は『大岡政談 越後屋騒動』(木村恵吾監督、1938年)、『露営の歌』(溝口健二監督、1938年)。その後、「京映」を館名とし、第二次大戦後は「SY京映」「松竹京映」と改称し興行を続けたが2001年に閉館。
河原町 京都宝塚劇場(1942年) Kyoto Takarazuka Theater, Kawaramachi (1942)
写真/Photo
京都宝塚劇場は中京区河原町三条下ルにあった東宝直営の映画館。開館は1935年10月で宝塚少女歌劇の公演が行われた。掲載写真の上映作品は東宝でなく松竹の『男の意気』(中村登監督、1942年)だが、これはこの年、配給が映画配給社に一元化されたため。第二次大戦後、洋画封切館として「京都スカラ座」が増設され2館で「京都宝塚会館」となったが、2006年に閉館。現在は複合商業ビル「ミーナ京都」となっている。
河原町 文化映画劇場(1938年) Bunka Eiga Theater, Kawaramachi (1938)
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文化映画劇場は中京区河原町蛸薬師上ルにあった映画館。開館は1937年8月で、略称は「文映」といい、第二次大戦後は洋画の上映館として親しまれたが、1961年に閉館。
西陣 千本座(1932年) Senbonza Theater, Nishijin (1932)
写真/Photo
千本座は上京区千本通一条上ルにあった日活系の映画館。1901年、牧野省三が芝居小屋を買収して開場、のち映画スターとなった尾上松之助一座などの芝居を上演していたが、1912年に日活直営館となった。掲載写真は1932年の新築開館時のもの。上映作品は『天晴れ三段跳』(木藤茂監督、1932年)、『三万両五十三次』(辻吉朗監督、1932年)、『旅は青空』(稲垣浩監督、1932年)。1953年に「千本日活」と改称したが、1963年に閉館した。
西陣 轟館(1941年) Todorokikan Theater, Nishijin (1936)
写真/Photo
轟館は北区北大路通舟岡にあった映画館。1941年、もとは日活系の二番館であった「待鳳館」を改装して、女優の轟夕起子経営の「轟館」と改めた。写真は新装開館時のもので、上映作品は轟夕起子の出演作『続 清水港』(マキノ正博監督、1940年)と記録映画『海軍空襲部隊』、アメリカの漫画映画など。俳優仲間の小杉勇、嵐寛寿郎、杉狂児、市川春代らが贈った花輪が見える。
Theater managed by a star actress Yukiko Todoroki.