NFAJ Digital Gallery – No.8
公開日:2014年9月6日
第8回
戦前期日本の映画館写真(6)―大阪 新世界 なんば 梅田 阿倍野篇
20世紀最大の娯楽産業として君臨してきた映画―それを担ったのは、昭和初期までに各地に建設された豪奢な映画館の数々でした。大衆を惹きつけるその堂々たる建築、そして華やかな宣伝装飾は、娯楽の王者としての映画の圧倒的なパワーを象徴しています。「戦前期日本の映画館写真」第6回は、大阪の発展の中で人々を集めた新世界・なんば・梅田・阿倍野地区などを取り上げ、映画が都市文化として力強く根付いてゆく様をご覧いただきます。なお、このシリーズの写真はすべて国立国会図書館からの寄贈によるものです(社団法人日本映画連合会旧蔵映画公社資料)。
新世界 パーク劇場 パークキネマ(1935年)
Park Theater and Park Kinema, Shinsekai (1935)
写真/Photo
新世界は1903年の内国勧業博覧会の跡地に整備された繁華街で、この中に1912年「ルナパーク」が開業。「ルナパーク」はニューヨークの遊園地コニーアイランドを模して開発され、パリのエッフェル塔を似せて初代「通天閣」(写真中央)も作られた。1925年の「ルナパーク」閉園後、同年12月に園内の劇場「清華殿」を引き継いで東亜キネマの封切館となったのが「パーク劇場」(左)。「パークキネマ」(右)は同年3月、「ルナパーク」の「演技館」を再利用した洋画封切館。
新世界 公楽座(1931年)
Korakuza Theater, Shinsekai (1931)
新世界 いろは座(1935年)
Iroha Theater, Shinsekai (1935)
なんば 南街映画劇場(1938年)
Nangai Eiga Theater, Nanba (1938)
写真/Photo
南街映画劇場は、南海電鉄なんば駅前の戎橋筋に、1938年1月東宝系映画館として開館。近代的な大型ビルの予定だったが、非常時建築制限令のため木造で定員668名の規模になった。写真の上映作品は『エノケンの猿飛佐助』前後篇(岡田敬監督)。1953年には4劇場からなる「南街会館」が建設され、キタの「梅田東宝会館」と並ぶミナミの東宝系複合劇場として栄えたが、老朽化のため2004年閉鎖。現在ここには「南街東宝ビル」(なんばマルイ)が建ち、シネコン「TOHOシネマズなんば」がある。なお、もともとこの場所には、1897年に日本で初めてシネマトグラフが公開された「南地演舞場」があった。
梅田 建築中の梅田映画劇場(1937年)
Umeda Eiga Theater under construction (1937)
写真/Photo
松竹や日活など旧勢力と対立するようになったP.C.L.映画製作所が、他の3社と統合して東宝映画となった1937年は、「東宝ブロック」が強化される画期的な年となった。その一環として、大阪興行界でも、ミナミの道頓堀や千日前に君臨していた松竹系劇場に対して、阪急電鉄の起点であるキタの梅田駅周辺の開発が進められた。写真中央は建築中の梅田映画劇場、左奥が北野劇場。
梅田 梅田映画劇場 梅田地下劇場(1938年)
Umeda Eiga Theater and Umeda Chika Theater (1938)
写真/Photo
梅田映画劇場と梅田地下劇場は、1937年12月、隣接する北野劇場に続いて開館。梅田映画劇場は大阪初の東宝封切館で定員は2003名、地下劇場は邦画か洋画の1本立てに短篇を付けた形態で定員588名。写真の上映映画は、梅田映画劇場が『阿部一族』(熊谷久虎監督)、地下劇場がアメリカ映画『軍使』(ジョン・フォード監督、1937年)。梅田映画劇場は1949年12月「梅田劇場」と改称。1978年「梅田東宝会館」閉館と共に閉鎖された。閉館時には北野劇場を加えた3劇場の他70mm上映も可能な「梅田スカラ座」とATG映画上映館「北野シネマ」があった。
Umeda Eiga Theater had 2003 seats.