さる2006年、日本の近現代史とその中に生きる人間を鋭く見つめながら、既成の映画作りの枠を飛び出して映画芸術を革新した二人の映画作家、今村昌平監督と黒木和雄監督が逝去されました。
1926年、東京に生まれた今村監督は1951年に松竹大船撮影所に入社、その後の日活時代も含め、助監督として名匠・小津安二郎、川島雄三両監督の薫陶を受けました。1958年の『盗まれた欲情』で演出家としてデビューし、その後『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『赤い殺意』(1964年)などの猥雑なエネルギーに満ちた一連の作品により決定的な評価を獲得します。欲望にまみれた人間の暗部を精力的に描き、自ら今村プロダクションを設立してからは記録映画やテレビ作品にも挑戦して、1983年の『楢山節考』ではカンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールを受賞しました。その後も『黒い雨』(1989年)やパルム・ドールを再度獲得した『うなぎ』(1997年)などを通じて、その名を世界に知らしめるに至りました。
1930年、三重県に生まれた黒木監督は1954年に岩波映画製作所に入社、産業PR映画という制度の中、『あるマラソンランナーの記録』(1964年)などで型破りの表現に挑みました。『とべない沈黙』(1966年公開)によってドキュメンタリーから劇映画へ転身した後も、ノンフィクション出身らしい凝視の視線や体制への批判精神を保ちながら『竜馬暗殺』(1974年)や『祭りの準備』(1975年)といった青春群像劇の秀作を発表、社会から疎外された人間像を鋭く描写しました。さらに、もう一つの代表作となった『TOMORROW 明日』(1988年)からは太平洋戦争下の庶民生活を積極的に取り上げ、それは遺作となった『紙屋悦子の青春』(2006年)にまで引き継がれています。
両監督の演出スタイルは異なるものでしたが、日本映画の最盛期にデビューしつつも従来の映画産業の構造に反旗を翻したこと、劇映画とノンフィクションの双方で活躍したこと、社会の弱者やマイノリティの視点を常に抱いていたこと、そして原爆被害者への鎮魂の思いを込めた作品を持つことなど、共通する点も少なくありません。
この二巨匠が遺した1990年前後までの43作品(今村監督22作品、黒木監督21作品)を31プログラムに組み合わせ、それぞれの偉大な映画芸術の歩みをたどります。