www.momat.go.jp

大ホール上映作品

フィルムは記録する2005:
日本の文化・記録映画作家たち

Glimpses of Nippon 2005: A Japanese Documentary Tradition

2月22日(火)- 3月27日(日) →上映スケジュール

料金=一般500円/高校・大学生・シニア300円/小・中学生100円

・観覧券は当日・当該回にのみ有効です。
・発券・開場は開映の30分前から行い、定員に達し次第締切となります。
・シニア(65歳以上)の方は、必ず年齢を証明できるものをご提示ください。

 日本のノンフィクション映画の豊饒な系譜をたどってきたフィルムセンターの長期企画「フィルムは記録する」は、実写撮影の草創期に始まり、「文化映画」の黄金時代であった太平洋戦争期、産業PR映画や視聴覚教育が隆盛を迎えた経済成長期、そしてそうしたスポンサード映画の枠組みに抗する若いスタッフが立ち上がった1960年代を経由して、さらに激しいうねりを見せる1970年代を迎えました。日本が達成した類いまれな高度成長は、無数の産業PR映画に結実した一方、発展の裏面に生じた“傷跡”に厳しく対峙する新しい“ドキュメンタリー作家”たちを生み出します。

 戦後の代表的なプロダクションである岩波映画製作所が、科学映画・産業映画の発信元として優れた力量を見せ続ける中、同社の自由な風土をジャンプボードとして土本典昭(「水俣」シリーズ)、小川紳介(「三里塚」シリーズ)、東陽一、岩佐寿弥といった旧「青の会」の演出家たちは、それぞれ自主製作に移行し、社会批判や実験性の強い長篇を送り出しました。この自主製作の潮流は、衝撃的なデビューを飾った原一男なども加えて、この時期のノンフィクション映画を席巻します。また顕微鏡撮影の名門、東京シネマが1966年に製作活動を縮小した後、残されたスタッフたちによる新しい題材や製作基盤の模索は、テクノロジーの深まりとともに科学映画の多様な拡がりを実現します。一方でこの時期、民俗学の思潮が映画製作に結びつき、失われつつある伝統的な生活様式をフィルムに収めるべく、多くの映画作家が国内各地や海外にまで足を運ぶようになりました。

 こうした複雑な道のりを、主に1970年代以降に製作された55本の作品を通じて振り返るこの企画は、現代の映像製作へとつながる数々の問題や倫理をはらんで、刺激に満ちたものとなるでしょう。

■(監)=監督・演出 (製)=製作・企画 (原)=原作・原案 (脚)=脚本 (構)=構成・製作構成 (撮)=撮影 (美)=美術 (編)=編集 (録)=録音 (音)=音楽・作曲 (解)=解説・かたり・ナレーター (出)=出演

■本特集には不完全なプリントが含まれています。

■記載した上映分数は、当日のものと多少異なることがあります。

1 2/22(火)3:00pm 3/12(土)1:00pm
土本典昭[1]

「『青の会』は、甘い追憶としてはない」(小川紳介)の言葉通り、岩波映画周辺の若きスタッフ集団「青の会」のメンバーは、早々と、それぞれの流儀で前例のない自主製作を開始した。京都大の助手であった破天荒な全共闘活動家・滝田修を追った『パルチザン前史』は、小川プロが土本典昭を指名して完成させた一篇。土本=大津コンビは、滝田の日常生活に至るまで執拗にキャメラを向けることでその強烈なキャラクターをすくい上げ、この映画を3回観たという巨匠監督・豊田四郎は、滝田を乱世に現れた弥勒菩薩に擬して語るほどであった。幻想的なまでの火炎瓶実験のシーンも忘れがたい。

パルチザン前史(121分・16mm・白黒)

‘69(小川プロダクション)(監)(編)土本典昭(製)市山隆次、小林秀子(撮)大津幸四郎、一之瀬正史(録)久保田幸雄(出)滝田修(竹本信弘)

2 2/22(火)7:00pm 3/13(日)4:00pm
土本典昭[2]

生涯にわたる生活と医療の保証を求める水俣病患者たちの、チッソ社との直接自主交渉を記録した「水俣」シリーズ第3作。交渉が暗礁に乗り上げると、患者たちの情念はしばしば“語り”となって噴出したが、それを見事に捕捉したのは、かつては高嶺の花だった同時録音システムであった。土本は、患者たちの闘いを組織しながら撮影に取り組むという姿勢で臨み、本作はとりわけ訴えかける力の強い映画となったが、これ以降の『不知火海』(1975年)などでは徐々に患者たちの“同伴者”としての視点を強くしている。

水俣一揆 一生を問う人びと(108分・16mm・白黒)

‘73(青林舎)(監)土本典昭(製)高木隆太郎(撮)大津幸四郎、高岩仁(録)浅沼幸一(音)真鍋理一郎(解)宮沢信雄

3 2/23(水)3:00pm 3/12(土)4:00pm
小川紳介[1]

1968年、小川紳介とスタッフは、あらゆる政治勢力から自由な形で、農民たち自らの空港建設反対運動を撮るべく予定地の成田市三里塚に居を定める。世界の記録映画史にも例を見ない長期滞留・共同生活という態勢を維持し、農家の人々との緊密なコミュニケーションを築くことで「撮影主体」と「撮影対象」の関係を乗り越えた「三里塚」シリーズを実らせた。『日本解放戦線 三里塚』はその第2作で、農民たちの激しい抵抗を示しながらも、村社会の分裂や反対派農民たちの戸惑いも克明に描かれている。通称「三里塚の冬」。

日本解放戦線 三里塚(142分・16mm・カラー)

‘70(小川プロダクション)(監)小川紳介(製)小林秀子、野坂治雄、伏屋博雄、市山隆次、飯塚俊男ほか(撮)田村正毅(録)久保田幸雄(音)真鍋理一郎

4 2/23(水)7:00pm 3/13(日)1:00pm
小川紳介[2]

闘いのもっとも激化した時期を捉えた、小川プロの「三里塚」シリーズ第4作。農婦たちは自らの体を鎖で樹木に縛りつけて徹底抗戦し、男たちは地下壕を掘って闘いの準備を整える。ズームや望遠レンズに頼ることを嫌ったキャメラマン田村正毅は、農民と機動隊との一か月にわたる攻防戦を常にその中心部からフィルムに収め、類いまれな映像の力を汲み上げた。また本作は、闘争記録であるばかりでなく、その過程から生まれた新しい共同体の成長を捉えたドキュメントにもなっている。

三里塚 第二砦の人々(140分・16mm・白黒)

‘71(小川プロダクション)(監)小川紳介(製)野坂治雄、伏屋博雄、飯塚俊男ほか(撮)田村正毅

5 2/24(木)3:00pm 3/19(土)1:00pm
東陽一

「青の会」の中から現れ、広告の渦巻く都市社会を描いた短篇『A FACE』(1963年)を発表した東陽一は、このドキュメンタリー『沖縄列島』で長篇デビューを果たす。コーラ瓶を加工したガラス細工やパイナップルの缶詰工場など、アメリカ施政下琉球の消費文化を巧みに捉えながら、そこにB-52の巨大な機体を対置させて日本返還前の張りつめた空気を表現した。パイナップル畑を踏みしめる労働者の足音など、久保田幸雄らの優れた録音術にも驚かされる。

沖縄列島(91分・35mm・白黒)

‘69(東プロダクション)(監)(脚)(編)東陽一(製)高木隆太郎(撮)池田伝一(録)久保田幸雄、本間喜美雄(音)松村禎三(解)岡村春彦、村松克巳

6 2/24(木)7:00pm 3/20(日)4:00pm
岩佐寿弥[1]

「青の会」に集った演出家の中でも、岩佐寿弥は、土本・小川らのソーシャル・ドキュメンタリー志向とは異なり、長篇デビュー作『ねじ式映画 私は女優?』(1969年)以来「映像で語る」行為自体の政治性を作品ごとに提示した。この『叛軍No.4』では、戦時中、叛乱行為で罪に問われた元二等兵が、これまで内密にしていた事実をとうとうと語り始めるが、その講演を終える瞬間、さらに映画の根源を揺るがす事実を明らかにする。この「叛軍」シリーズは、当初反戦自衛官・小西誠の裁判経過を収めたアジビラ映画(シネ・トラクト)であった。

叛軍No.4(98分・16mm・白黒)

‘72(「叛軍」製作集団)(監)岩佐寿弥(撮)堀田泰寛(録)岡本光司(演出助手)大月英明(出)和田周

7 2/25(金)3:00pm 3/20(日)1:00pm
岩佐寿弥[2]

岩佐寿弥は、4年ぶりの作品『眠れ蜜』によって、フィクションとドキュメンタリーの間に横たわる茫漠とした領域の探求をさらに推し進めた。詩人・佐々木幹郎がシナリオを書いた本作は全3部に分かれたオムニバス作品で、3つの世代に属する3人の“女優”(うち長谷川泰子は中原中也の恋人であった人物)がそれぞれ「自分自身」という役柄を演じるという趣向。和田周と吉行和子が語り合う第2部のみがカラー撮影で、ロケーションは雪の降る小樽の街で行われた。監督以下、スタッフがあえて画面に現れるのも興味深い。

眠れ蜜(100分・16mm・パートカラー)

‘76(シネマ・ネサンス)(監)(編)岩佐寿弥(製)平田豪成、坂本時久(脚)佐々木幹郎(撮)田村正毅(美)渡辺睦(音)福山敦夫(出)根岸とし江(季衣)、長谷川泰子、吉行和子、和田周、岸部シロー

8 2/25(金)7:00pm 3/19(土)4:00pm

松川八洲雄(計130分)

新理研映画を皮切りに、各社で優れた美術映画、PR映画を発表しつつ、自主製作にも活動を広げた“映像のアルチザン”松川八洲雄は、現在も『出雲神楽』(2002年)などで気を吐いている。素焼きの彫刻家の仕事を収めた『土くれ』は、撮影自体を切り詰めて一度限りの編集に賭け、さらにナレーションを廃した即興的な野心作。そして長篇『不安な質問』は、日々の食べ物に不信を感じた都市生活者たちが自ら農場運営に乗り出す過程を記録した自主製作映画である。オルタナティヴな科学を通じてユートピアの可能性が真摯に問われた、1970年代の思潮を反映している。

一粒の麦(28分・16mm・カラー)

‘62(日本産業映画センター)(監)松川八洲雄(製)田代博茂(撮)鈴木喜代治、佐藤昌道(音)間宮芳生

土くれ 木内克の芸術(17分・35mm・カラー)

‘72(隆映社)(監)(脚)松川八洲雄(製)灰野謙三(撮)(製)楠田浩之、喜屋武隆一郎(録)甲藤勇(音)(製)木下忠司(出)木内克

不安な質問(85分・16mm・カラー)

‘79(たまごの会映画製作委員会)(監)(脚)松川八洲雄(撮)瀬川順一(録)弦巻裕(音)間宮芳生

9 2/26(土)1:00pm 3/11(金)3:00pm
原一男[1]

原一男の衝撃のデビュー作『さようならCP』は、社会の秩序だった風景を乱そうと、脳性マヒ(CP)の患者を「車椅子を捨てて、とにかく町へ出よう」と説得して実現した一本。撮る側の人間が、撮られる側の生に踏み込み、盛んに挑発することで被写体に変化を起こさせてゆく原の手法は、本人によって「アクション・ドキュメンタリー」と名づけられた。上映当初には非難も浴びせられたが、被写体となった人々自らが、障害者を「温かく見守る」福祉映画こそ健常者が上から見下ろす視線の産物だと主張、監督を弁護した。

さようならCP(83分・16mm・白黒)

‘72(疾走プロダクション)(監)(撮)原一男(製)小林佐智子(録)栗林豊彦

10 2/26(土)4:00pm 3/15(火)7:00pm
原一男[2]

2作目『極私的エロス・恋歌1974』では、沖縄へ渡ったかつての伴侶から自力出産を撮ってほしいと依頼された原一男が、新しいパートナーを伴って撮影に臨む。二人の女が生々しい感情を吐き出し、自発的に三角関係をさらけ出す過程が、その張本人である男によって記録されてゆく。原にとって「監督=撮影者」は最低限の前提であり、作り手もまた被写体と同じく「演じている」のだという意識が、自らのプライバシーを破壊せんとするこの稀有な作品の世界を支えている。

極私的エロス・恋歌1974(93分・16mm・白黒)

‘74(疾走プロダクション)(監)(撮)原一男(製)小林佐智子(録)久保田幸雄(編)鍋島惇(音)加藤登紀子

11 2/27(日)1:00pm 3/11(金)7:00pm

青林舎からシグロへ[1](計109分)

岩波映画のプロデューサーだった高木隆太郎が設立した青林舎は、1970年代以降、土本典昭の「水俣」シリーズを代表として日本のソーシャル・ドキュメンタリーの重要な拠点となり、そこから若月治、小池征人、西山正啓ら「ポスト土本」世代の作家たちが巣立った。合成洗剤による水質汚染を防ごうと、食用廃油を回収して粉石けんを作るグループを記録した『新せっけん物語』は、社会批判の矛先を大資本や政府ばかりでなく、私たちの日常生活に向ける。また『水俣の甘夏』は、海を奪われた水俣の漁民たちが甘夏栽培に賭ける様を追うが、水銀を流した企業と同じ加害者にはなりたくない、と低農薬栽培に切り替えた人々の決意をキャメラは飾ることなく素直に捉えた。

新せっけん物語(54分・16mm・カラー)

‘82(青林舎)(監)若月治(製)米田正篤(撮)清水良雄(録)久保田幸雄(音)横田年昭

水俣の甘夏(55分・16mm・カラー)

‘84(青林舎=水俣病患者家庭果樹同志会=水俣病センター相思社)(監)小池征人(製)米田正篤、柳田耕一、高木隆太郎(撮)一之瀬正史、清水良雄(録)久保田幸雄(音)堤政雄(解)伊藤惣一

12 2/27(日)4:00pm 3/15(火)3:00pm
青林舎からシグロへ[2]

「ゆんたんざ」とは沖縄本島の読谷村(よみたんそん)の古名「読谷山」を指す。面積のおよそ半分が米軍基地に占められ、生活と戦争が表裏一体となったこの村の若者と、沖縄戦のモニュメントを作る彫刻家の姿を追う。日本「復帰」を厳しく拒否する女子高校生の衝撃的な行動に、本土とは異なる「戦後」が現前する。青林舎は1986年にシグロに改組、記録映画プロダクションとしての地歩を固めながら、現在は劇映画への進出も著しい。

ゆんたんざ沖縄(110分・16mm・カラー)

‘87(シグロ)(監)西山正啓(製)山上徹二郎(撮)大津幸四郎(録)本間喜美雄(音)小室等

13 3/1(火)3:00pm 3/26(土)1:00pm
自主製作の広がり[1]

記録映画作家協会、映像芸術の会などの映画運動にかかわって論陣を張った若いドキュメンタリストの中でも、西江孝之はとりわけ独特な製作活動で注目された。日本映画研究所を創立、榎本健一の遺作となった喜劇『臍(へそ)閣下』(1969年)を発表した後、紀行ドキュメンタリーを志して単身アフリカ東岸に赴く。西江は50キロ近い機材を担いで現地の少年とともにダウ船で放浪、魅力的な音楽を採録しながら映画作りのほぼ全パートをこなした。この作品『黄金の旅チュンドワ』は、のちに「八方破れのプライベートフィルム的自由さ、饒舌さ」(野田真吉)とも評されている。

黄金の旅チュンドワ アフリカ東部海岸文なし漂流記(90分・16mm・カラー)

‘72(日本映画研究所)(監)(製)(脚)(撮)(録)(編)西江孝之

14 3/1(火)7:00pm 3/27(日)1:00pm
自主製作の広がり[2]

東京・山谷の日雇い労働者の日々の現実や、暴力団との闘いを記録した自主製作映画。この「寄せ場」の闘争に加わる中でキャメラを手にし始めた佐藤満夫は、撮影11日目に暴力団組員によって刺殺される。その遺志を引き継いだ労働者のリーダー山岡強一と制作上映委員会は、寿町、釜ケ崎、笹島など全国の「寄せ場」を捉えながら各地の争議を記録するが、映画を完成に導いた山岡もやがて右翼の凶弾に倒れた。闘争手段としての映画メディアの可能性を追求した本作は、画面にみなぎる緊張感によって、日本ドキュメンタリー史においても特異な屹立を見せる。

山谷(やま) やられたらやりかえせ(110分・16mm・カラー)

‘85(「山谷」制作上映委員会)(監)(製)佐藤満夫(監)山岡強一(スタッフ)赤松和子、荒木剛、赤松陽構造、池内文平、神田十吾、菊地進平、小見憲、佐藤聡美、高田明、平井玄、福田憲二

15 3/2(水)3:00pm 3/26(土)4:00pm
亀井文夫

1960年以来、短篇PR作品を例外として映画から離れていた亀井文夫は、20年ものブランクを経てエコロジスト作家として復活した。『トリ・ムシ・サカナの子守歌』は、『みんな生きなければならない ヒト・トリ・ムシ』(1984年)の続篇にあたる第2部で、完成後に他界したため遺作となったが、本来は全4部の計画だった。現代文明の驕りを、人間以外の生き物の視点で告発するという大胆な発想のもと、亀井は協力者から寄せられた膨大な映像資料の山と戦いながら編集を続けた。きわめて素朴な自然への讃歌と目まぐるしいほどの編集との噛み合わせがかえって作品の凄みを増すことになった、巨匠の“白鳥の歌”である。

生物みなトモダチ<教育編> トリ・ムシ・サカナの子守歌(166分・16mm・カラー)

‘87(生物みなトモダチ製作委員会)(監)亀井文夫(製)阿部隆、楠木徳男、谷川義雄(撮)菊地周、奥村裕治ほか(録)甲藤勇ほか(音)今井重幸

16 3/2(水)7:00pm 3/17(木)3:00pm
柳沢寿男

戦前からの大ベテラン柳沢寿男は、1968年の『夜明け前の子どもたち』以来、PR映画の世界を離れて自主製作による福祉映画の道に入った。その実り多い晩年からは5本の長篇が誕生したが、その4作目にあたる『そっちやない、こっちや』は、愛知県知多市に暮らす、成人した知的障害者たちが自ら共同作業所を建設する様を追ったもの。映画に揺るがぬコンセプトを求める一方、障害者ひとりひとりの世界を見つめる柳沢の眼は遺作の『風とゆききし』(1989年)まで貫かれた。

そっちやない、こっちや コミュニティ・ケアへの道(113分・16mm・カラー)

‘82(記録映画「コミュニティ・ケアへの道」製作委員会)(監)(構)柳沢寿男(製)伊藤方文(撮)塩瀬申幸(録)小林賢(音)冬木透(解)伊藤惣一

17 3/3(木)3:00pm 3/16(水)7:00pm

勅使河原宏(計87分)

1962年の『おとし穴』以来、劇映画監督としての名声を勝ち取ってきた勅使河原宏は、短篇『動く彫刻 ジャン・ティンゲリー』、続く長篇『アントニー・ガウディー』でドキュメンタリーに回帰する。後者はバルセロナの天才建築家ガウディの計画した巨大建造物サグラダ・ファミリアの建築過程を追った記録。1983年に撮影した35mmフィルムに、1959年、勅使河原が初めての渡欧時に撮影した16mmのフッテージを挿入した構成で、二つの映像の落差が、横たわる時間の重みを表現している。

動く彫刻 ジャン・ティンゲリー(15分・35mm・白黒)

‘81(勅使河原プロダクション)(監)勅使河原宏(撮)瀬川浩、青木利夫(録)瀬川徹夫(編)守隋房子(音)一柳慧(解)中村吉右衛門

アントニー・ガウディー(72分・35mm・カラー)

‘84(勅使河原プロダクション)(監)(製)(編)勅使河原宏(製)野村紀子(撮)瀬川順一、柳田義和、瀬川龍(録)浅利公治(編)吉田栄子(音)武満徹、毛利蔵人、堀真慈

18 3/3(木)7:00pm 3/18(金)3:00pm

羽田澄子と自由工房[1](計126分)

岩波映画の草創期からその先頭を走り続け、現在も秀作『山中常盤』で健在ぶりを示す演出家・羽田澄子が、夫・工藤充の設立したプロダクション自由工房をベースに、自主企画によるドキュメンタリーを作り始めたのは1970年代後半である。『薄墨の桜』は、岐阜県山間部に立つ樹齢1400年の桜を見つめた、私家版の趣もある初の自主作品。久々の岩波映画製作となった『痴呆性老人の世界』は、病院に収容された老女たちの生を凝視することで、「痴呆性ゆえに鮮やかに発色する女の存在感、質感(…)が澄明にとらえられている」(土本典昭)とも評された。

薄墨の桜(42分・16mm・カラー)

‘77(藤プロダクション)(監)(脚)羽田澄子(製)工藤充(撮)西尾清、瀬川順一、若林洋光(録)片山幹男(編)加納宗子(解)香椎くに子

痴呆性老人の世界(84分・16mm・カラー)

‘86(岩波映画製作所)(監)羽田澄子(製)河上裕久(撮)西尾清(録)久保田幸雄、滝沢修(選曲)戸高良行(解)斎藤季夫

19 3/4(金)3:00pm 3/27(日)4:00pm
羽田澄子と自由工房[2]

モダン・ダンスの第一人者、アキコ・カンダがある公演に臨み、自分のダンス人生や生活、家庭観などを語る。当初は公演記録をメインにした50分の作品を予定していたが、工藤プロデューサーの「勝負は舞台のあとにある。僕たちはもっと稽古場に通おう」という言葉から長篇へと変貌、撮影は7か月に及んだ。アキコ・カンダのダンスに合わせて写真家・篠山紀信が舞うようにシャッターを切り、さらにその二人を流麗なキャメラワークがつかまえたラストは特に印象的。

AKIKO あるダンサーの肖像(107分・16mm・カラー)

‘85(自由工房)(監)羽田澄子(製)工藤充(撮)宗田喜久松ほか(録)滝沢修ほか(出)アキコ・カンダとアキコ・カンダ・ダンス・カンパニー

20 3/4(金)7:00pm 3/16(水)3:00pm

時枝俊江(計84分)

岩波映画で100本以上の作品を手がけてきた時枝俊江は、1975年以降、東京・文京区の企画による一連の興味深い作品を発表している。本郷通り界隈の絵図を通じて江戸時代の民衆生活を探る『絵図に偲ぶ江戸のくらし』は、旧来の啓蒙的な解説を排して、ナレーターに日常的な語り口で話させた斬新な手法が注目された。「音声は画と対等」とする時枝の姿勢は、そのライフワークになった一連の児童教育映画にも活かされ、4歳児の行動を追った『光った水とろうよ』では、解説を控え目に、子どもたちの肉声を効果的に使っている。

文教の歩みをたずねて(30分・16mm・カラー)

‘75(岩波映画製作所)(監)(脚)時枝俊江(製)安達弘太郎(撮)八木義順(録)佐久間俊夫(解)伊藤惣一

絵図に偲ぶ江戸のくらし 吉左衛門さんと町の人々(32分・16mm・カラー)

‘77(岩波映画製作所)(監)(脚)時枝俊江(製)安達弘太郎(撮)八木義順(録)佐久間俊夫(解)伊藤惣一

光った水とろうよ ―幼児の知的好奇心をさぐる―(22分・16mm・カラー)

‘79(岩波映画製作所)(監)時枝俊江(製)藤瀬季彦(撮)八木義順(録)佐久間俊夫(解)伊藤惣一

21 3/5(土)1:00pm 3/17(木)7:00pm

桜映画社(計99分)

村山英治の指揮のもと、科学映画や伝統工芸・芸能の記録、教育映画、育児映画、アニメーションまで幅広くコンスタントな製作活動を続けてきた桜映画社。1970年代以降、特に伝統工芸の記録で他の追随を許さないプロダクションとなったが、『伊勢型紙』は『色鍋島』(1973年)とならんでその頂点と言える作品。人気の同名書を原作とした『にっぽん洋食物語』は、西洋料理の日本への導入と、それを米飯にも合う「洋食」に変身させた日本人の工夫とを記した教養篇である。

伊勢型紙(30分・35mm・カラー)

‘77(桜映画社)(監)(製)(脚)村山英治(撮)金山富男(音)山内忠(解)伊藤惣一(出)宮原敏明、六谷進一、長谷川重雄、中村勇二郎、児玉博、城之口みえ、清水幸太郎、小宮康孝

歌舞伎の立廻り(34分・16mm・カラー)

‘81(桜映画社)(監)(脚)藤原智子(製)村山英治、利光久輝(撮)植松永吉、村山和雄(編)吉田栄子(解)相川浩(出)坂東八重之助、市村羽左衛門、中村橋之助、市川銀之助、尾上松鶴、坂東羽之助、岩井若次郎、市川男女二郎、市川笑也、中村芝喜松ほか

にっぽん洋食物語(35分・35mm・カラー)

‘85(桜映画社)(監)(脚)山下秀雄(製)村山英世(原)小菅桂子(脚)村山英治、山田三枝子(撮)北川英雄(録)清島竹彦(音)杉田一夫(解)山本圭

22 3/5(土)4:00pm 3/18(金)7:00pm

産業映画の展開[1]:岩波映画製作所(計96分)

創立世代の羽仁進や、ドキュメンタリー志向の強かった「青の会」系のスタッフが社を去った後、岩波映画は科学映画・産業映画のプロダクションとして新世代の演出家や脚本家、キャメラマンなどを多数デビューさせた。この「第三世代」の岩波映画は、産業映画界そのものの縮小に抗しながら良質の作品を発表し、さらに博覧会映像などの分野にも展開を図る。『見えない鉄道員』は、情報通信、エレクトロニクスなど、視覚化が難しいジャンルの増えたこの時期の産業映画を象徴する一本。『水を創る』は、産業用水の確保をめぐる壮大な水のリサイクルを提案してその年の日本産業映画大賞を得た。

見えない鉄道員(20分・16mm・カラー)

‘70(岩波映画製作所)(監)堀越慧(製)田村勝志(脚)吉原順平(撮)久米義男

はかる(25分・16mm・カラー)

‘73(岩波映画製作所)(監)(脚)堀越慧(製)高橋宏暢(脚)牧衷(撮)中谷英雄

水を創る(30分・35mm・カラー)

‘75(岩波映画製作所)(監)(脚)北條美樹(製)堀谷昭(撮)小村静夫

フィルムをつくる フジカラーの誕生(21分・35mm・カラー)

‘77(岩波映画製作所)(監)(撮)小村静夫(製)(脚)片野満(解)城達也

23 3/6(日)1:00pm 3/22(火)3:00pm

産業映画の展開[2]:鹿島映画(計116分)

鹿島映画(現カジマビジョン)は、鹿島建設の出資による子会社で(1963年創立時の名称は日本技術映画社)、PR映画界の巨匠・岩佐氏寿が率いた技術映画のプロダクションである。専門性の高い内容を扱うため、外部の製作会社を使わず、会社の内部に映画スタッフを組織したのは当時斬新な試みであった。「『超高層霞ヶ関ビル』の本当の主役はコンピューター」(吉原順平)という言葉にもある通り、時代は純粋な工事記録よりも、より複雑な技術のヴィジュアル化を産業映画に求めていたことが分かる。

超高層霞ヶ関ビル(44分・35mm・カラー)

‘67(日本技術映画社)(監)(製)(脚)岩佐氏寿(撮)大野洋

水のある沙漠 ―イラン―(38分・16mm・カラー)

‘73(鹿島映画)(監)(製)(脚)岩佐氏寿(撮)大野洋(音)冨田勲(解)城達也

青函トンネル 本州側工事の記録(34分・35mm・カラー)

‘77(鹿島映画)(監)(脚)吉田巖(製)井上祐吉(脚)田代公幸(撮)大鹿隆一郎

24 3/6(日)4:00pm 3/23(水)7:00pm

科学映画の展開[1]:東京シネマ新社(計89分)

社主・岡田桑三が顕微鏡映画の名門・東京シネマの経営から退いて実質的に製作活動を止めた後、その子息・岡田一男が1973年に興した東京シネマ新社は、スポンサード映画よりも自主企画を中心とし、キャメラマン谷口常也との共同作業により生物学映画や民族文化の映像に活路を見出した。微小な海の生物の動きを力強い映像にまとめた沖縄海洋博向けの『マリン・フラワーズ』は、本来3面マルチスクリーン作品だが、今回は1スクリーン版を上映する。

マリン・フラワーズ 腔腸生物の生活圏(31分・35mm・カラー)

‘75(東京シネマ新社)(構)(編)岡田一男(製)岡田桑三(撮)西山東男ほか(音)宮本光雄(解)平光淳之助

ムーン・ジェリー ミズクラゲのライフサイクル(33分・16mm・カラー)

‘77(東京シネマ新社=下中記念財団EC日本アーカイブズ)(監)岡田一男(製)岡田桑三(撮)谷口常也、草間道則ほか(解)佐々木敦

生きものは動く 微小管の機能(25分・16mm・カラー)

‘79(東京シネマ新社)(監)(製)岡田一男(監)(脚)後藤雅毅(製)岡田桑三(撮)谷口常也、草間道則(解)草野仁

25 3/8(火)3:00pm 3/24(木)7:00pm

科学映画の展開[2]:小林米作とヨネ・プロダクション(計87分)

東京シネマの重要な牽引力であったミクロ撮影の第一人者・小林米作が、1967年に設立した生命科学映画の新会社ヨネ・プロダクションは、生体顕微鏡撮影と微速度撮影の分野で世界的な水準を誇る。製薬会社・化粧品会社などのスポンサーを得て、現在までの製作本数は、フィルム撮影の作品だけで240本以上にのぼる。小林が東京シネマ時代からともに仕事をしてきた杉山正美、大沼鉄郎といった名スタッフも活躍した。

ぜんそくを探る(17分・35mm・カラー)

‘69(ヨネ・プロダクション)(監)(脚)杉山正美(製)小林米作(脚)(実験)高岡成好(撮)小林米作(音)鈴木明(解)城達也

脳と潰瘍(22分・35mm・カラー)

‘71(ヨネ・プロダクション)(監)(脚)杉山正美(製)小林米作(実験)高岡成好(撮)明石太郎(音)小杉武久(解)城達也

スキンカラー(30分・35mm・カラー)

‘74(ヨネ・プロダクション)(監)(脚)杉山正美(製)小林米作(撮)明石太郎、春日友喜(実験)高嶋芳男(音)小杉武久(解)城達也

感染病シリーズVol.1 つつが虫病(18分・16mm・カラー)

‘87(ヨネ・プロダクション)(監)(脚)小林正(製)牧茂治、大沼鉄郎(撮)上原剛、鈴木博之、浅野勲(実験) 忍足和彦(音)甲藤勇(解)和田篤

26 3/8(火)7:00pm 3/23(水)3:00pm

科学映画の展開[3]:樋口源一郎とシネ・ドキュメント(計78分)

生物学者・樋口源一郎率いるシネ・ドキュメントは、樋口とキャメラマン石井董久との二人三脚により、特に菌類の生態を扱った映画で高い評価を得ている。『きのこ』ではシイタケの胞子形成の仕組みを、また『細胞性粘菌の行動と分化』では、これまで未調査だった土壌環境での粘菌の行動を微速度撮影で明らかにした。そして、落ち葉や枯れ木に見られる真正粘菌のリズミカルな動きを捕捉し、毎日映画コンクールほか多数の賞を総なめにした秀作『真正粘菌の生活史』は、91歳となった樋口の不屈の健在ぶりを印象づけた。その後も『きのこの世界』(2001年)を発表し、現在98歳。

きのこ シイタケ菌を探る(28分・16mm・カラー)

‘80(シネ・ドキュメント)(監)(製)(脚)樋口源一郎(撮)鈴木喜代治、奥村祐治、石井董久(録)星一郎(音)深沢康雄(解)和田篤

細胞性粘菌の行動と分化 ―解明された土壌の生態―(22分・16mm・カラー)

‘91(シネ・ドキュメント)(監)(製)(脚)樋口源一郎(撮)石井董久(録)星一郎(解)和田篤

真正粘菌の生活史 ―進化の謎・変形体を探る―(28分・16mm・カラー)

‘97(シネ・ドキュメント)(監)(製)(脚)樋口源一郎(撮)石井董久(解)和田篤

27 3/9(水)3:00pm 3/25(金)7:00pm

科学映画の展開[4]:シネ・サイエンス(計80分)

東京シネマの撮影スタッフであった武田純一郎が1968年に創立したシネ・サイエンス(現アイカム)は、医学映画に特化したプロダクションとして輝かしい作品歴を残している。実験を通じて大気汚染が生物に与える影響を訴えた『生体と大気汚染』は、シネ・サイエンス初期の傑作。顕微鏡撮影とアニメーションを組み合わせた『たまごからヒトへ』は、児童文学者・岸田衿子のテクストと妹の女優・岸田今日子のナレーションを得て、性教育映画の名作とも謳われた一本である。

生体と大気汚染(24分・16mm・カラー)

‘72(シネ・サイエンス)(監)(脚)(編)武田純一郎(学術監督)浅香時夫(製)林六郎(撮)長谷川高久、永井弘道(録)片山幹男(音)堀悦子(解)城達也

染色体に書かれたネズミの歴史(32分・35mm・カラー)

‘75(シネ・サイエンス)(監)(脚)武田純一郎(製)林六郎(撮)長谷川高久(録)片山幹男(音)堀悦子(解)伊藤惣一

たまごからヒトへ(24分・16mm・カラー)

‘76(シネ・サイエンス)(監)(脚)(撮)武田純一郎(脚)岸田衿子(作画)森日出朝(音)池野成(解)岸田今日子

28 3/9(水)7:00pm 3/24(木)3:00pm
民俗学映画の展開[1]:野田真吉

1970年代日本のノンフィクション映画の新展開として、民俗学を基盤にした製作活動の盛り上がりがある。1960年代には実験的趣向を見せた大ベテラン野田は、次第に民俗学へ傾斜、南信濃の神事を扱った『冬の夜の神々の宴』(1970年)を発表した後1974年には「日本映像民俗学の会」を設立する。信州・新野の有名な雪まつりに材を採った『ゆきははなである』は、子息たちと友人による家族的な態勢で撮影を敢行、5年をかけて完成した労作。だが、この「いきなり神事のただ中に連れ込まれ」(佐藤真)るような幻惑的な感覚は、純粋な学術記録に飽き足らぬ“映画作家”の視線が生み出したものである。

ゆきははなである 新野の雪まつり(130分・16mm・カラー)

‘79(監)(製)野田真吉(撮)亘真幸(録)井上洋右(解)高島陽

29 3/10(木)3:00pm 3/22(火)7:00pm

民俗学映画の展開[2]:姫田忠義と民族文化映像研究所(計98分)

かねてから民俗学者・宮本常一に師事していた姫田忠義は、宮崎県の民俗行事をテーマにした『山に生きるまつり』(1970年)を製作して以来、アイヌ、沖縄をはじめ日本各地の「基層文化」を映画として記録、のちに民族文化映像研究所を設立して現在に至っている。意図的な演出を極力避け、民俗資料としての揺るぎない価値を目指したその態度は、アイヌ文化の伝承者の指導のもと、伝統的な家の建築を忠実に再現した初期作品『チセ ア カラ』などにも現れている。

チセ ア カラ われらいえをつくる(57分・16mm・カラー)

‘74(民族文化映像研究所)(監)(製)(脚)姫田忠義(製)小泉修吉(撮)伊藤碩男、澤幡正範、渡辺昌(録)惣川修(出)萱野茂

うつわ 食器の文化(41分・16mm・カラー)

‘75(民族文化映像研究所)(監)(製)(脚)姫田忠義(製)小泉修吉、宮本千晴(撮)伊藤碩男、澤幡正範(録)森本孝、須藤護(音)林光(解)糸博

30 3/10(木)7:00pm 3/25(金)3:00pm

民俗学映画の展開[3](計147分)

沖縄・西表島を舞台にした北村皆雄の『アカマタの歌』は、民俗学の視点から出発しつつも、秘儀の撮影を拒まれた経験を通じ、「記録」という行為自体を対象化することでドキュメンタリー作りの倫理をも問いかける問題作。また『私の人生 ジプシー・マヌーシュ』は文化人類学の視点に立った映画で、フランスの映像人類学者・ジャン・ルーシュに学んだ大森康宏(現国立民族学博物館教授)が、フランスのロワール地方で家馬車(ルーロット)による移動生活を営むマヌーシュ族に注目し、その独自の生活様式を記録したものである。なお本作には上映時間90分のフランス語版もある。

海南小記序説・アカマタの歌 西表島・古見(87分・16mm・カラー)

‘73(遊行鬼)(監)(構)北村皆雄(構)松村修、三上豊、小川克巳、深元敬、内藤陽子(撮)柳瀬裕史(音)上地昇(解)鈴木瑞穂

私の人生 ジプシー・マヌーシュ(60分・16mm・カラー)

‘77(監)(製)(撮)大森康宏(製)(撮)大森紀美江