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Exhibition 企画・展示情報

ドキュメンタリー作家 土本典昭

Noriaki Tsuchimoto: The Life of a Documentary Filmmaker
2009.6.30-8.30
会場

東京国立近代美術館フィルムセンター 展示室(企画展)

会期

2009年6月30日(火)~8月30日(日)

開室時間

11:00am-6:30pm
(入場は6:00pmまで)

休室日

月曜日

観覧料

料金:一般200円(100円)/大学生・シニア70円(40円)/高校生以下、障害者(付添者は原則1名まで)、MOMATパスポートをお持ちの方、キャンパスメンバーズは無料

*料金は常設の「展覧会 映画遺産」の入場料を含みます。
*( )内は20名以上の団体料金です。
*学生、シニア(65歳以上)、障害者、キャンパスメンバーズの方はそれぞれ入室の際、証明できるものをご提示ください。
*フィルムセンターの上映企画をご覧になった方は当日に限り、半券のご提示により団体料金が適用されます。

主催

東京国立近代美術館フィルムセンター

特別協力

映画同人シネ・アソシエ

「記録なければ事実なし」
―没後一年、その思考と行動の軌跡をたどる


 2008年6月24日、日本のドキュメンタリー界を代表する映画作家、土本典昭監督が逝去されました。1928年、岐阜県に生まれた土本は、1956年に岩波映画製作所に入社、映画作りの研鑽を積むとともに、黒木和雄・小川紳介などドキュメンタリーの同志との交流を深めながら、映画と世界とのかかわりを模索しました。1963年には国鉄のPR映画『ある機関助士』のダイナミックな表現で頭角を現しますが、その後に直面した水俣病の現実が、映画作家としての土本の生涯を決定づけます。『水俣 患者さんとその世界』(1971年)に始まる「水俣」シリーズは、撮影対象に徹底して寄り添い、問題の深奥をえぐる一貫した姿勢を通じて国内外の観衆に衝撃を与えました。また1980年代以降は主題の幅をより拡げ、その著作とともに今日まで日本のドキュメンタリー界を牽引してきました。「映画は生きものの仕事である」との信念のもとに生み出されたその作品群は、社会への批判精神だけではなく、人間や他のあらゆる生命に注ぐ視線の暖かさによっても特徴づけられます。
 監督の没後一年となるこの機会に、フィルムセンターは、ご遺族や製作プロダクションの所蔵する写真や遺品を中心とする展覧会を開催し、この記録映画の巨星の思考と行動の軌跡をたどります。小ホールでの上映企画「ドキュメンタリー作家 土本典昭」と併せてご鑑賞ください。

★関連企画(映画上映)
京橋映画小劇場No.14
ドキュメンタリー作家 土本典昭

2009年8月11日(火)-8月30日(日)
フィルムセンター小ホール(地下1階)

 記録映画への道―岩波映画へ
 “青の会”―若きドキュメンタリーの旗手
 独立の時代
 生きものの仕事―水俣へ
 新たなる旅

 ドキュメンタリーの仲間たち
 海外における土本典昭
 土本典昭の仕事部屋

青年時代の土本典昭はジャーナリストを志望していたが、社会へ向けられるその鋭い視線が“映画”という形で表現されるようになったきっかけは、1956年、岩波映画製作所の重役・吉野馨治の紹介で、臨時雇員として同社に入ったことである。翌年にはフリーとなるが、主に岩波映画の製作する企業PR映画で製作進行を務め、ドキュメンタリー・タッチの斬新な劇映画『不良少年』(1960年)では、同社の看板監督だった羽仁進の補佐となっている。

ドキュメンタリー作家としての土本は、独りで立ち上がったわけではない。その映画作りは、1960年代初めに岩波映画の周辺に集い、“青の会”を自称した若手スタッフとの絶え間ない議論と実践を通じて鍛えられた。土本がこの時期に交流した、演出の黒木和雄・小川紳介・岩佐寿弥・東陽一、撮影の鈴木達夫・大津幸四郎・田村正毅、録音の久保田幸雄といった同志は、いずれもその後の日本映画を刷新する重要な映画人となった。土本は、この頃に初期の代表作『ある機関助士』を発表、そのダイナミックな表現で注目を浴びる。

《この時期の主な作品》
『ある機関助士』(1963年)
 3分の運行の遅れを必死で取り戻そうとする蒸気機関車の機関助士たちの奮闘を、臨場感あふれる構成で捉える。

土本ら新世代のドキュメンタリー作家たちは、企業や官公庁のPR映画という従来のノンフィクション映画の枠組みに飽き足らなかった。自由な題材の選択や自在な製作態勢を求めて、独立的な映画製作を志向するに至った土本は、撮影対象への積極的な接近を通して新たなドキュメンタリーの手法を模索してゆく。

《この時期の主な作品》
『ドキュメント 路上』(1964年)
 タクシー運転手の日常をテーマにした交通安全のPR映画。鈴木達夫の撮影を得たダイナミックな映像が印象的。
『留学生チュア スイ リン』(1965年)
 英領マラヤ人留学生の除籍処分に対し、抗議に立ち上がった学生たちの動きを自在なカメラワークで収める。
『シベリア人の世界』(1968年)
 極東からモスクワまで、約5か月のシベリア横断旅行を通じて民衆の日常を記録した、テレビ番組の劇場公開版。
『パルチザン前史』(1969年)
 破天荒な学生運動家・滝田修の生活に密着し、その特異なキャラクターに迫る。盟友小川紳介の製作で完成した。

1965年、テレビ番組の取材で接した水俣病患者の悲痛きわまる状況は、ドキュメンタリー作家としての土本の生涯を決定づけることとなった。1971年の『水俣 患者さんとその世界』を皮切りに、高木隆太郎率いる青林舎のプロデュースによって次々と送り出された「水俣」シリーズは、単なる告発の映画ではない。しばしば政治運動への収斂に自足してきたそれまでの「記録映画」を脱して、個々の人間の世界を粘り強く掘り下げ、病の奥に隠れた豊かな人間像を提示したことで、日本のドキュメンタリー史に輝く連作として高く評価された。

《この時期の主な作品》
『水俣 患者さんとその世界』(1971年)
 「水俣」シリーズ第1作。当時はまだ少なかった認定患者たちの運動の拡がりを、日々の生活とともに捉える。
『水俣一揆 一生を問う人びと』(1973年)
 患者たちのチッソ本社における直接交渉の記録。初めて同時録音を導入し、患者の痛切な声が収められた。
『医学としての水俣病』(1975年)
 「資料・証言篇」「病理・病像篇」「臨床・疫学篇」からなる3部作。水俣病をめぐる精緻な映像資料となった。
『不知火海』(1975年)
 汚染された海が徐々に生命を取り戻してゆく中、裁判勝訴の後も終わることのない患者たちの苦悩に迫る。
『わが街わが青春 石川さゆり水俣熱唱』(1978年)
 成人した胎児性水俣病患者たちが、自らの手で歌謡コンサートを企画し、熱心に運営に取り組む。

水俣病問題の風化に抗いつつ、土本は新しい主題を求めてドキュメンタリーの仕事を深化させていった。しかしどの題材やアプローチにおいても、土本が目指したのは“人間”の追求であり、それは最後の長篇映画となったアフガニスタン長期ロケーションの『よみがえれカレーズ』でも変わることはなかった。それ以降も、自らの製作母体「映画同人シネ・アソシエ」を創立するなど、ビデオを中心に精力的な製作活動に携わった。

《この時期の主な作品》
『偲ぶ 中野重治』(1979年)
 反骨の作家・中野重治の告別式の記録。志を同じくした8人の文学者たちの弔辞が心を打つ。
『水俣の図・物語』(1981年)
 画家の丸木位里・俊夫妻が、水俣の悲劇を巨大な絵画にしてゆくさまを捉える。音楽は武満徹が作曲。
『原発切抜帖』(1982年)
 新聞記事の切り抜きと小沢昭一の軽妙なナレーションだけで、当時の核エネルギー問題を批評した異色作。
『海盗り 下北半島・浜関根』(1984年)
 原子力船の母港建設のために、漁業権を奪われようとしている下北の漁民たちの暮らしを描く。
『はじけ鳳仙花 わが筑豊わが朝鮮』(1984年)
 朝鮮人強制連行の歴史をリトグラフや絵筆に託した画家、富山妙子の創作の現場に迫る。
『水俣病その30年』(1987年)
 公式確認から30年を経てなお人々の暮らしに影を落とす、水俣病の現況をつぶさに記録した。
『よみがえれカレーズ』(1989年)
 内戦から立ち直ろうとする1988年のアフガニスタンの民衆生活を記録した。熊谷博子らとの共同監督。

土本は、“青の会”の同志からだけではなく、羽仁進・羽田澄子・時枝俊江といった戦後の記録映画を切り拓いた先行世代の作家から学ぶことも忘れなかった。また1970年代からは「水俣」シリーズを通じて、その撮影現場は小池征人・西山正啓・高岩仁・一之瀬正史・清水良雄といった新世代のドキュメンタリー人脈を生み出すこととなる。さまざまな映画人との交流の軌跡や、その仕事を支えた人々を紹介する。

日本社会への鋭い視線に貫かれた土本の仕事は、国外でも高い評価を獲得している。とりわけ“映画作品”であると同時に科学的な“映像資料”でもある「水俣」シリーズはヨーロッパを中心に世界各地で上映され、その中で1975年にカナダへ赴いた土本はカナダ水俣病の関係者とも交流した。また『よみがえれカレーズ』で撮影されたアフガニスタンのカーブル博物館は、その後の爆撃や盗難で多くの貴重な文物が失われたため、土本の映像の中だけで残されたものも多い。さらに土本は、晩年までフランスやアメリカなど各地の映画祭・セミナーに参加するなど、日本の現代社会やドキュメンタリー映画の情況を常に海外に発信し続けた。

東京・杉並区にある土本の仕事場は、その着想の源となったひとつの“宇宙”である。日課として切り抜いた膨大な新聞記事のファイルを、新たな映画を思考するための糧にしてきたその流儀は独自のものである。土本が遺した日常の道具とともに、2002年に「映画同人シネ・アソシエ」と改称したその仕事部屋を再現する。

土本典昭 (つちもとのりあき)
1928年12月11日~2008年6月24日

岐阜県土岐市生まれ。10歳より東京で過ごし、終戦後に早稲田大学に入学する。学生運動に身を投じたのち日中友好協会事務局に勤務するが、1956年に岩波映画製作所に入社、産業PR映画の製作進行や羽仁進監督作品の監督補佐を務める。やがて、同社に集う若手スタッフとともに「青の会」を名乗って来るべきドキュメンタリー映画のあり方を模索、1963年に国鉄のPR映画『ある機関助士』を発表して注目された。1971年には『水俣 患者さんとその世界』を発表、その生涯の主題となった「水俣」シリーズは17本を数えた。以降も核・原発問題やアフガニスタン情勢など、20世紀の人類が抱えたさまざまな問題をテーマとしながら現代日本のドキュメンタリー映画界を牽引する存在となった。著書に「映画は生きものの仕事である」(1974年、未來社)、「逆境のなかの記録」(1976年、未來社)、対話集「ドキュメンタリーの海へ」(2008年、現代書館)などがある。

関係者・専門家によるギャラリートークを開催いたします。

※申込不要、参加無料(展示室の観覧券は必要です)。
※当日の企画上映チケットの半券をご提示いただくと、割引が適用されます。

日程: 2009年7月11日(土)
時間: 3:20pm-

ゲスト:土本基子氏(土本監督夫人)、石坂健治氏(映画研究者)
テーマ:「素顔の土本典昭―人間と作品のあいだ」
※終了しました。

日程: 2009年8月1日(土)
時間: 0:30pm-

ゲスト:中村秀之氏(立教大学現代心理学部教授)
テーマ:「『ある機関助士』と土本典昭の初期作品」
※終了しました。

日程: 2009年8月22日(土)
時間: 2:40pm-

ゲスト:高木隆太郎氏(映画プロデューサー、青林舎元代表)
テーマ:「『水俣』シリーズ―製作の現場を語る」
※終了しました。

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The National Museum of Modern Art, Tokyo