東京国立近代美術館 フィルムセンター

大ホール上映作品

フィルムで見る20世紀の日本

Twentieth Century Japan as Captured by Film

この度フィルムセンターは、東京国立近代美術館本館のリニューアル記念展覧会「未完の世紀-20世紀美術がのこすもの」の関連企画として、「フィルムで見る20世紀の日本」を開催する運びとなりました。美術作品を通して、20世紀とはいかなる時代だったのかを考える「未完の世紀」展に対して、フィルムセンターの企画は、コレクションの重要な部分をなす日本の記録映像に照準を当てながら、激しい変化を体験した20世紀の日本の政治、社会、文化を18の切り口を軸に俯瞰する試みです。これらの映像は、日本の社会をいかに反映し、その機能性によって社会とどう結び付き、さらには社会をどう作り変えようとしてきたのでしょうか。この上映企画を通じて、過去の映像に触れることがノスタルジーにとどまらぬ新鮮な体験であることが確認できるでしょう。

■監=監督・演出 製=製作 原=原案 脚=脚本 構=構成 撮=撮影 編=編集 録=録音 音=音楽 解=解説 出=出演
■本特集には不完全なプリントが多く含まれています。
■記載した上映分数は、当日のものと多少異なることがあります。

上映スケジュール


N-1 3/5(火)3:00pm 3/16(土)1:00pm
大正の映像(計122分)
日本の記録映像の黎明となった「日本南極探檢」の完成が大正元年。その後関東大震災(N-2参照)を経て大正天皇の死去を複数のキャメラが競って撮影するに至り、大正時代は《映画で記録する》という行為の確立する時代であった。その被写体の中心となったのは「皇太子殿下御歸朝」に見られるように皇室であり、また「日本南極探檢」や「韃靼海峡氷原航海」のような、キャメラにとって未踏の土地である。また大正末期は文部省が映画教育を推進しいわゆる「文部省映画」を作り始めた時期でもあり、「蕪島のうみねこ」のような教育映画ばかりでなく、大正天皇の葬儀にも今回上映の大日本活動写真協会版のほかに文部省版が存在する。

日本南極探檢(20分・35mm・無声・白黒)
’12(Mパテー商会)(撮)田泉保直

秋田縣黒川油田大噴油實況(12分・16mm・無声・白黒)
’14(日本石油)

皇太子殿下御歸朝[不完全版](7分・35mm・無声・白黒)
’21(帝国興行)

韃靼海峡氷原航海(58分・35mm・無声・白黒)
’23(撮)近藤至誠

蕪島のうみねこ(10分・16mm・無声・白黒)
’25(文部省)

大正天皇 御大喪儀(15分・35mm・無声・白黒)
’27(大日本活動写真協会)


N-2 3/6(水)3:00pm 3/17(日)1:00pm
災害の記憶[1]:関東大震災(計103分)
関東大震災は大東京を一瞬にして焦土に帰したが、各社の撮影技師たちは自らを危険に晒しつつ震災直後の惨状を争ってキャメラに収めた。中でも長篇「關東大震大火實況」は他を圧する取材力と卓越した構成によって映画の報道・記録メディアとしての側面を照らし出し、文部省内に活動写真班が設置される直接の契機ともなった。「関東大震災」はタイトル欠落のため詳細は不明であるが、高坂利光撮影による日活作品「関東大震災実況」かとも思われ、各社競作の状況を窺わせる史料として上映する。震災後、官民総がかりによる目覚ましい「復興」は多数の都市労働者を生み、映画の社会的役割は急速に高まることになる。

關東大震大火實況(63分・35mm・無声・白黒)
’23(東京シネマ商會)(撮)白井茂

関東大震災[仮題](13分・35mm・無声・白黒)
’23(不詳)

飛行船による震災前の京浜(13分・16mm・無声・白黒)
’26(横濱シネマ商會)(撮)佐伯永輔

航空船にて復興の帝都へ(14分・16mm・無声・白黒)
’26(文部省)(撮)白井茂


N-3 3/7(木)3:00pm 3/17(日)4:00pm
災害の記憶[2](計87分)
自然災害の展示場とも言える日本、そして激しい戦災に見舞われた日本。関東大震災に続いて、各地を襲った災害現場の実情を伝えるプログラム。1929年6月、北海道で周辺地域に深刻な損失を与えた「駒ヶ岳の爆發」、そして1930年11月、静岡県・神奈川県にまたがって多数の死者を出した「北伊豆震災」はいずれも文部省映画で、ニュース映画のシステムが確立する前の希有な記録である。梅雨時の豪雨による「関西一帯を襲った空前の大洪水」では、流失した京都の二条・三条・五条大橋の姿が見られる。また「日本ニュース 第248号」では、空襲で全滅した東京深川の被災地を天皇が訪問する。戦後の「讀賣国際ニュース No.289」では日本最大の海難事故となった青函連絡船洞爺丸の遭難が、さらに「No.290」では同日の北海道岩内町の火災も報道されているが、両者とも内田吐夢監督「飢餓海峡」のシナリオの土台となったことで知られる。戦後最大級の被害を与えた伊勢湾台風については、開始間もない「東映ニュース」の映像でお伝えする。

駒ヶ岳の爆發(24分・16mm・無声・白黒)
’29(文部省)(監)(脚)(撮)(編)(録)

北伊豆震災(14分・16mm・無声・白黒)
’30(文部省)

関西一帯を襲った空前の大洪水 昭和十年六月廿九日(8分・16mm・白黒)
’35(東京日日新聞社=大阪毎日新聞社)

日本ニュース 第248号(東京大空襲の被災地ほか)(7分・16mm・白黒)
’45(日本映画社)

讀賣国際ニュース No.289、No.290(洞爺丸転覆事故ほか)(9分と8分・16mm・白黒)
’54(読売映画社)

東映ニュース 第5号、第6号(伊勢湾台風ほか)(9分と8分・16mm・白黒)
’59(東映=朝日テレビニュース社)


N-4 3/8(金)3:00pm 3/21(木・祝)1:00pm
戦争と「外地」[1]:中国と「満州」(計119分)
いま満州(満洲)の実像を想像することは難しい。1999年に満鉄会から寄贈された満鉄作品を交えながら、フィルムに収められた「満洲国」の姿を紹介する。「松竹ニュース」が初期のニュース映画ならではの映像の列挙に徹する一方、「国際連盟…」はリットン調査団の動きだけでなく街角の映像も豊富に取り入れ、政治状況とは距離を置いた日常性も見せている。さらに芥川光蔵率いる満鉄映画製作所の一連の観光・産業映画、そしてその後継者吉田秀雄の科学映画「氷の表情」からも、この地域独特の風土を読み取ることができるだろう。最後の「朝日世界ニュース」は満州には直接関連しないが、大陸戦線に赴いた小津安二郎監督や俳優佐野周二、岡譲二らの姿を見せてくれる貴重なフッテージである。

松竹ニュース 眼の新聞 日支衝突事件第一報・第二報(11分・35mm・無声・白黒)
’31(松竹キネマ)

国際連盟調査団の満州訪問[The League of Nations Commission of Inquiry in Manchuria](42分・16mm・無声・英語及びフランス語字幕付・白黒)
’32(南満州鉄道)

吉林の鵜飼(9分・16mm・白黒)
’37(満鉄・鉄路総局)(監)芥川光蔵

満洲大豆(22分・16mm・白黒)
’38(満鉄映画製作所)(監)芥川光蔵

氷の表情(29分・35mm・白黒)
’41(満鉄映画製作所)(構)吉田秀雄(撮)川島精二、星野欣司、加藤武士、栗山秀一(音)鈴木静一

朝日世界ニュース No.261(陣中の人気者〈小津安二郎軍曹〉ほか)(9分・35mm・白黒)
’39(朝日新聞社)


N-5 3/12(火)3:00pm 3/21(木・祝)4:00pm
戦争と「外地」[2]:台湾・朝鮮・南方(計100分)
「時局下の臺灣」と「京城」が、すでに日本の植民地経営の深まりを示す一方、日本は占領した南方地域へのプロパガンダを重視するようになった。今回上映する各国語版のニュースの他にタイ語やビルマ語のものも製作され、それぞれ連合軍に追われるまで続いた。中でも天皇誕生日(1942年4月29日)のバンドン市を映した「ジャワの天長節」は3月1日のジャワ島上陸後最初のニュース映画で、翌年には日本映画社ジャカルタ製作所が設立されて盛んな映画製作を行うようになる。

時局下の臺灣(39分・16mm・白黒)
’37(台湾総督府)

京城(24分・35mm・サウンド版・白黒)
’40(大日本文化映画製作所)(監)清水宏(撮)厚田雄治(編)浜村義康(音)伊藤宣二

アクチュアリテ・デュ・モンド No.6[ACTUALITES du MONDE No.6](インドシナの道路建設ほか)(8分・16mm・白黒・フランス語・日本語字幕なし)
’41(日本映画社)

大東亜ニュース 第1号[DAITOA NEWS No.1](香港陥落・占領ほか)(11分・16mm・白黒・英語・日本語字幕なし)
’42(日本映画社)

ジャワの天長節[KETIKA HARI KELAHIRAN J.M.M. TENNO-HEIKA DI TANAH DJAWA](10分・16mm・白黒・インドネシア語・日本語字幕なし)
’42(ジャワ宣伝班)

フィリピン・ニュース No.4[Balita sa Filipinas No.4](新生フィリピンの警察学校、日本の稲の試験的田植ほか)(8分・16mm・白黒・タガログ語・日本語字幕なし)
’42(渡集団宣伝班)


N-6 3/13(水)3:00pm 3/24(日)1:00pm
日本瞥見[1]:東京(計112分)
20世紀の東京を一変させた三大事件(震災、大空襲、オリンピック)のうち、震災後の数年間を中心に首都の変貌をとらえる。「公衆作法 東京見物」は、観光地をめぐると同時に都会生活のマナーをユーモラスに紹介し、また「復興帝都シンフォニー」では震災後の新しい東京のエネルギーが示されている。一方、水上生活者の父子の日常を劇仕立てで描いた「隅田川」には近代化の波に揺れる伝統的な生活様式が、また「大東京祭」の開都500年記念行事には新しい東京の自治意識の高まりが表されている。

公衆作法 東京見物(46分・16mm・無声・白黒)
’26(文部省)(監)森要(撮)白井茂(出)保瀬薫、松山浪子、柳田貞一、北御門はな子

復興帝都シンフオニー(21分・16mm・無声・白黒)
’29(東京市政調査会)

隅田川(20分・16mm・無声・白黒)
’31(文部省)(脚)雨夜全(撮)薮下泰次、斉藤宗武

フヰルム・レビュー 大東京(5分・16mm・無声・白黒)
’32頃(東京シネマ商会)(製)川谷庄平

大東京祭(20分・16mm・白黒)
’56(東京都映画協会)(構)(編)伊勢長之助(製)寺部龍夫(撮)喜多村幸次郎、浅野正博、長瀬直道(解)高橋圭三


N-7 3/14(木)3:00pm 3/24(日)4:00pm
日本瞥見[2]:北と南(計96分)
列島の南北で独特の文化を築き上げた、沖縄の人々とアイヌ民族の生活を収めたプログラム。「沖縄」では那覇や首里の街並、現在は存在しない軽便鉄道が撮影されている。また「海の民 沖縄島物語」は伝統的な爬龍(ルビ:ハーリー)船競走や、糸満の漁師たちの漁法を解説している。北へ目を転じると、「朝日世界ニュース」には戦時下のアイヌの人々に対する同化政策の一端を見ることができる。また戦後の釧路地方で撮影された「アイヌの古式舞踊」は北海道庁の委託により18種の伝統舞踊を記録したもの。「イヨマンデ」は二風谷の集落に住んでいた英国人医師マンローが昭和初期に撮影した熊の霊送りの行事を、後にトーキーとして構成した作品である。

沖縄(14分・35mm・白黒)
’36(富士スタジオ)(編)近藤伊與吉(撮)栗林実(解)江川宇礼雄

海の民 沖縄島物語(27分・35mm・白黒)
’42(東亜発声映画)(監)村田達二(撮)藤田英次郎、入江良平(録)安部恒雄(音)木村京司ほか

朝日世界ニュース No.272(アイヌの人々による皇軍武運長久の祈りほか)(9分・35mm・白黒)
’39(朝日新聞社)

アイヌの古式舞踊[不完全版](18分・16mm・白黒)
’55(インタナショナル映画=村田プロ)(監)村田達二(撮)菊地清

イヨマンデ -秘境と叙情の大地で-(28分・35mm・白黒)
’65(オリンピア映画社)(監修)金田一京助(構)尾形青天(撮)N・G・マンロー(編)堀江貞子


N-8 3/10(日)1:00pm 3/15(金)3:00pm
衛生の思想(計125分)
国民生活を「健康」という高みへ向けて強力に導く衛生思想は、戦前の民衆にとって最も身近なイデオロギーであったが、厚生省や内務省衛生局の主導で都市から農村までくまなく伝播するにあたり、映画の機動性と説得力は存分に活用された。寄生虫や伝染病を扱う教育映画の多くが予防法を中心に解説し、戦後になるとより客観的な科学映画の趣きを強くする中で、サイレント作品「花柳病」は線画アニメーションによって感染経緯を図解し、感染後の症状を畳み掛けることにより、ひたすら映像によって恐怖を高めている。

花柳病[不完全版](9分・35mm・無声・白黒)
’30頃(厚生省)

健康美(39分・16mm・無声・白黒)
’31(文部省)

榮養國策(21分・16mm・白黒)
’36頃(日本電報通信社)(原)杉本次正

結核の話 感染と発病(12分・35mm・白黒)
’39頃(東宝文化映画部)

天然痘(7分・35mm・白黒)
’49(日本映画社)

蛔虫 -感染と対策-(22分・16mm・白黒)
’52(岩波映画製作所)(監)岩佐氏寿(撮)吉野馨治

結核の予防(15分・16mm・白黒)
’50年代後半(メトロノームプロ)(監)後藤誠(脚)金子敏(撮)並川達雄


N-9 3/9(土)1:00pm 3/19(火)3:00pm
婦人の姿(計121分)
時代が求める「婦人」像の変遷を追うプログラム。戦時下の4作では、戦線に立つ男たちに劣らぬ気迫と忍耐で銃後を守る婦人を描く「戰ふ女性」「漁婦」「私たちは…」の中にあって、「世界は人口戦である」との主張を軸に、ひたすら産めよ殖やせよと奨励する「結婚進軍譜」がとりわけ異彩を放つ。都市で、農村で、あるいは家庭でさまざまな労働に従事する女性の美を顕揚する「婦人の職業…」と「わたしは女性NO.1」は、極めて似通った構成であるが、後者は芸能界はじめ各界の著名人や当時流行のミスコンを紹介して戦後の高揚を華やかに伝えている。

婦人の職業 優しき力(28分・16mm・無声・白黒)
’26(文部省)

戰ふ女性(22分・35mm・白黒)
’39(朝日映畫)(監)(脚)永富映次郎(撮)田畑雅(録)近藤健郎

漁婦(10分・35mm・白黒)
’40(讀賣新聞社)(監)佐久良(撮)樋口哲雄

結婚進軍譜(18分・16mm・白黒)
’43(電通映画製作所)(監)笠木完一(脚)西川清士(撮)倉島周三(録)小原俊之助

わたし達はこんなに働いてゐる(18分・16mm・白黒)
’45(朝日映畫)(監)水木荘也(脚)厚木たか(撮)小西昌三

わたしは女性NO.1(25分・35mm・白黒)
’50(日本映画社)(監)(脚)庵原周一(監)中村敏郎(撮)栗林実、稲垣浩郎(録)国島正男(出)(構成)松井翠声


N-10 3/5(火)6:30pm 3/22(金)3:00pm
造る(計101分)
軽工業中心から重工業国へと移り変わる日本、その生産の場に視線を向けたプログラム。「我國の製鐵工業」は官営工場時代の八幡製鉄所(北九州)の記録で、産業映画のはしりとも言える文部省作品。また「セルロイドの話」は、当時の数少ない輸出用化学製品であったセルロイド産業を紹介するものだが、その原料の多くは植民地の台湾に依存していた。戦後の「流れ作業」は自動車やビスケット等の工場を例にオートメーションの仕組みを解説した教育映画で、その後の高度経済成長を支えるシステムを先取りする。その中で、台所用ラップで知られる化学物質サランがいかに製造され、多様な用途に使われているかを示すPR映画「サラン」には、セルロイド時代から脱皮しつつある工業化学の進歩が描写されている。

我國の製鐵工業(19分・35mm・無声・白黒)
’25(文部省)

日本蠶絲業の現況(29分・16mm・無声・白黒)
’31(日本中央蚕糸会)

セルロイドの話(17分・16mm・白黒)
’38(大日本セルロイド)

社會科教材映画大系 流れ作業(18分・35mm・白黒)
’50(東宝教育映画)(監)西沢豪(製)平松幸彦(脚)松崎与志人(撮)浦島進

サラン(18分・35mm・カラー)
’56(日本映画新社)(監)西沢豪(撮)塚原孝吉


N-11 3/6(水)6:30pm 3/23(土)1:00pm
働く(計101分)
映画が増産奨励の厳しいかけ声であった戦中期と、労働運動が急速に育った戦後とを対比させたプログラム。機関車の製造を細かいモンタージュで見せる満鉄作品「機関車パシハ」(日本公開1942年)は、「満州」と日本の増産に関するパラレルな姿勢を明らかにする。労働力不足を克服しようと生産に励む起重機工場の人々を活写した「勝利への生産」や、短期間での船の建造を描く「木造船」もその労働観を典型的に示したもの。一方で敗戦後、労働組合映画協議会(労映)、後に労働省が各プロダクションに毎年の労働界の動向をまとめさせた「労働ニュース」は、再生して間もない労働運動の勢いを生々しく伝えている。

機関車パシハ(22分・16mm・白黒)
’39(満鉄映画製作所)(監)(撮)藤井静(製)吉田秀雄(構)田澤象介(録)前田健朔(音)早坂文雄

勝利への生産(35分・35mm・白黒)
’42(芸術映画社)(監)水木荘也(脚)本田延三郎(撮)橋本龍雄(録)飯塚武男(音)澁谷修

木造船(18分・35mm・白黒)
’43(日本国策映画)(監)赤沢大助(撮)晴山善平(音)彩木暁一

労働ニュース 第一集 1948年上半期(9分・35mm・白黒)
’48(労働組合映画協議会=日本映画社)

労働ニュース 第2集 1948年6月より1949年6月まで(9分・35mm・白黒)
’49(労働組合映画協議会=理研映画)

読売国際ニュース366号(炭労スト、三池炭鉱ほか)(8分・16mm・白黒)
’56(読売映画社)


N-12 3/7(木)6:30pm 3/16(土)4:00pm
運ぶ(計103分)
日本の運輸業、交通機関の発展にスポットライトを当てたプログラム。1926年4月11日に代々木練兵場で行われた「航空ページェント」には80以上の飛行機のほか飛行船や気球も参加し、20万人の観客を集めたという。また交通博物館寄贈(旧国鉄所蔵)の可燃性ポジから復元された「氷雪に挑む」が、寒冷地の保線作業を題材に、輸送界の王者だった鉄道の問題を生々しくえぐる一方、モータリゼーションの発達に伴って大阪から東京へ向かうトラックに着目した「直行620キロ」は、スピード化の進む戦後の物流事情を雄弁に物語る。最後に、千葉県柏から野田まで、280トンの大型変圧器を5日間かけて輸送した特殊トレーラーの記録「68の車輪」は、《運ぶ》という行為のひとつの極致を見せている。

航空ページェント[不完全版](11分・35mm・無声・白黒)
’26(国民新聞社)(撮)鈴木喜代治

氷雪に挑む 寒地保線の人々(41分・35mm・白黒)
’52頃(内外映画社)(監)小林大平(製)石川卓見(脚)田中喜次(撮)中尾駿一郎(録)槙田金彌(音)塚原晢夫

トラック輸送 直行620キロ(19分・16mm・白黒)
’57(世界文化映画社)(監)(脚)山口順弘(原)鷹司平通(撮)佐藤清美

68の車輪(32分・35mm・カラー)
’65(東京シネマ)(監)森田実(脚)吉見泰(撮)入沢五郎、加藤和三、春日友喜(音)山本直純


N-13 3/8(金)6:30pm 3/20(水)3:00pm
築く(計104分)
高所へそして地下へと、建設技術の発展がもたらしたものを探るプログラム。最近広島でフィルムが発見された「地下鉄のできるまで」は、大阪の御堂筋線の建設を解説した珍しい教育映画。また戦後のダム建設ブームの中に位置付けられる「上椎葉アーチダム」(宮崎県耳川)や東京タワーの建設工程を詳細に解説した「偉大なる建設」、そして霞ヶ関ビルの完成を報じる「中日ニュース」は、いずれも高度経済成長への讃歌とも呼ぶべき映像である。最後の「東京国立近代美術館誕生」は、竹橋にある当美術館本館の建設を追った記録で、今回のリニューアルを記念して上映作品に加えた。

地下鉄のできるまで(11分・16mm・無声・白黒)
’35(テラダ映画)

上椎葉アーチダム 建設の記録(35分・16mm・白黒)
’55(ニュープレス映画社)

偉大なる建設 東京タワーの建設記録(33分・16mm・白黒)
'58(マツオカプロ)(監)(製)(脚)松岡新也(撮)石井準之助、上岡喜伝次、喜多村幸次郎、清水良浩(録)鈴木良夫(音)中西博(解)高橋圭三

中日ニュース No744(霞ヶ関ビルほか)(7分・16mm・白黒)
'68(中日映画社)

東京国立近代美術館誕生(18分・35mm・カラー)
’69(鹿島建設)(監)山本祐夫(撮)入沢甲


N-14 3/12(火)6:30pm 3/23(土)4:00pm
暮らす(計109分)
炊事、洗濯、掃除などの家事を科学の視点で捉え直すことで、衣食住という日常に映画という非日常を介入させるスリリングな6篇。「臺所の改善」において明言されているように、いずれの作品も、家事の改善が国民生活の能率を高め、ひいては明るい新日本の建設に繋がるという思想に色濃く裏打ちされている。防寒のため小さな窓しか設けない家(「農村住宅改善」)、女性の多大な労働力が水汲みの仕事に費やされる村や汚れた水路の水を飲用や炊事に使う村(「生活と水」)など、克服されるべき悪弊として提示される映像も貴重な記録である。

臺所の改善(13分・16mm・無声・白黒)
’32(文部省)

洗濯の科学(11分・16mm・白黒)
’40(中央文化映画研究所)(監)柳武史(撮)寺田清彦

農村住宅改善(20分・16mm・白黒)
’41(東宝文化映画部)(監)野田真吉(撮)福田三郎(録)酒井栄三(編)山田耕造(音)服部良一

私達の家庭防火(21分・35mm・白黒)
’50(日本映画社)

生活と水(19分・16mm・白黒)
’52(岩波映画製作所)(監)羽仁進(撮)栗林実(録)桜井善一郎

食糧の自給(25分・16mm・白黒)
’53頃(東京映画技術研究所)(監)(脚)八木仁平(撮)荒木秀三郎、大小島嘉一


N-15 3/13(水)6:30pm 3/22(金)6:30pm
教える(計99分)
教育の現場を通じて、日本における学校と子供像の変遷を示すプログラム。家庭と学校における礼儀作法を教える「子供の作法」、また同時期に国際文化振興会が海外向けの日本紹介映画として製作した「日本の小学校」は、当時の「理想の子供」像を提示して興味深い。後者は1940年までに8か国版、172本のプリントを国外に配布した人気作で、都会と地方の学校生活をバランス良く対比させている。さらに1947年の新しい学制を反映して児童の自治会活動も描写される「光にたつ子供たち」、群馬県西南部の学校を舞台に日本の僻地教育の実情を記録した「谷間の学校」には、戦後の子供たちの新しい息吹と課題を見ることができる。

子供の作法(9分・16mm・無声・白黒)
’36(学校映画研究会)(原)伊藤カズ(撮)澤田順介

日本の小学校[Primary Schools of Japan](30分・35mm・英語字幕[ナレーションなし]・白黒)
’36頃(国際文化振興会)

光にたつ子供たち(23分・16mm・白黒)
’48(日本映画社)(監)(脚)多胡隆(撮)宇野沢仁(録)佐藤肇

子供の天国 アメリカンカーニバル(15分・16mm・白黒)
’53(インタナショナル映画)(構)大内將光(撮)鈴木孝(音)加藤正彦(解)高島陽

谷間の学校(22分・16mm・白黒)
’56(日映科学映画製作所)(監)(脚)中村麟子(製)小林正忠(撮)木塚誠一


N-16 3/9(土)4:00pm 3/14(木)6:30pm
伝える(計91分)
ラジオ、映画、新聞、テレビなど20世紀のマスメディアの急速な発達を紹介するプログラム。「電波に聽く」は、NHKの後援により昭和初期のラジオ放送のバックステージを紹介する珍しい作品。また製作当時に公開見送りとなった「映画は前進する」は、科学映画の十字屋文化映画部としては異色の作品。当初の題名「映画は武器である」が示す通り映画のプロパガンダ性を押し出し、巡回映写班の活動もフィルムに収めているが、それは戦後の映画界が国際的な舞台を求めてヴェネチア国際映画祭に「羅生門」を送り出したスタンスとはあまりに対照的である。最後の「テレビの発達」はテレビの構造や社会的意義にも触れながら、テレビドラマ版の初代「あんみつ姫」のスタジオや、ニュース作りの現場にも潜入した珍しい教育映画である。

電波に聽く(16分・16mm・白黒)
’35(朝日新聞社=P.C.L.)(撮)白井茂

映画は前進する(20分・16mm・白黒)
’41(十字屋文化映画部)(構)渡邊義実(製)田中喜次(撮)坂齊小一郎、岡本昌雄(録)田中啓次、四釜壽郎(音)西山龍介

文化ニュース 230号(「羅生門」イタリアへほか)(7分・16mm・白黒)
’50(理研映画)

社會科教材映画大系 新聞のはたらき(20分・16mm・白黒)
’50(理研映画)(監)岡野巌(製)小山誠治(脚)村山英治(撮)竹内光男

テレビの発達(28分・16mm・白黒)
’59(教映プロ)(構)(脚)(撮)川合亮三


N-17 3/15(金)6:30pm 3/20(水)6:30pm
演じる(計114分)
日本映画は「紅葉狩」(1899年)以来、折りにふれて歌舞伎、能、文楽といった舞台芸術をその被写体に選んできたが、劇を記録することは、劇映画と記録映画という伝統的な区分を無効にする力を孕んでもいる。「劇をわれらに」は、農村演劇グループが農作業の合間に晴れの舞台を作り上げてゆく過程を見守りつつ、農村自治を奨励する異色作。少女歌劇を記録した2作は、団員たちの日常をスケッチする松竹版に対し、宝塚版はドイツやイタリアの軍服姿で枢軸国中心の連帯を謳い上げるなど時局を色濃く反映している。

若さと熱の集團藝術 松竹少女歌劇の一日(9分・16mm・白黒)
’33(松竹キネマ)(出)白金つぼみ、小野小夜子、草香多鶴子、大塚君代

鏡獅子[KAGAMIJISHI](22分・16mm・白黒)
’35(松竹キネマ)(監)小津安二郎(撮)茂原英雄

葵の上[Japan's Classical Noh Drama](30分・35mm・英語版・白黒)
’37(P.C.L.)(監)伏水修、山本薩夫

寶塚少女歌劇 グランドレヴュウ 五色のワルツ(9分・16mm・白黒)
’38(宝塚映画社)(出)若竹操、芝惠津子、萃澤榮子

文楽 人形遣いの妙技(25分・35mm・白黒)
’52(松竹)(原)小澤得二(監)長島豊次郎(脚)(撮)井上晴二(編)羽太みきよ(録)小尾幸魚(解)和田多吉(出)吉田文五郎、豊竹松太夫、野澤松之輔

劇をわれらに(19分・35mm・白黒)
’52(三木映画社)(監)秋元憲(製)(撮)三木茂(脚)北条明直


N-18 3/10(日)4:00pm 3/19(火)6:30pm
競う(計105分)
日本スポーツ史に輝く数々のトピックに触れるプログラム。早稲田の戸塚グラウンドで行われた「復活せる早慶野球試合」は、20年ぶりに復活した1925年10月20日の早慶戦を記録した文部省映画。「國民皆泳」ではベルリンで活躍した新井茂雄らが「水泳日本」を生み出した泳法を伝授する。「双葉山時代の回想」は不世出の名横綱双葉山が最盛期を迎えた戦時中の取組を撮影したもの。「神技三船十段」は、小柄な身体で近代柔道を拓き「空気投げ」を編み出した三船久蔵十段の技を集成した一本。「朝日ニユース」では大スター力道山が、得意の空手チョップを存分に披露している。

復活せる早慶野球試合(15分・35mm・白黒)
’25(文部省)(撮)藤波次郎ほか

朝日世界ニュースNo.132(ベルリン・オリンピックの日本選手ほか)(12分・35mm・白黒)
’36(朝日新聞社)

國民皆泳(21分・16mm・白黒)
’38(東宝映画)(監)雨夜全(撮)斉藤宗武、薮下泰次

日本の相撲 第二輯 双葉山時代の回想(20分・16mm・白黒)
’40年代後半(相撲映画プロ)(監)伊勢寅彦(撮)荒木慶彦(編)山上紀夫(解)徳川夢声、竹脇昌作

神技三船十段(28分・35mm・白黒)
’55(日本映画新社)(編)下村健二(撮)白井茂、汐田三代治、杉本正二郎

朝日ニユース 第635号(力道山対ルー・テーズほか)(9分・35mm・白黒)
’57(日本映画新社)