東京国立近代美術館 フィルムセンター

大ホール上映作品

フィルムは記録する2001: 日本の文化・記録映画作家たち

Glimpses of Nippon 2001: A Japanese Documentary Tradition

 報道、教育、宣伝などさまざまな局面で我々を取り巻き、20世紀を語る歴史資料としても重要性を増しつつある文化・記録映画--NFCが所蔵するコレクションによってその歩みを回顧する「フィルムは記録する」は、各時代の社会情勢や人々の生活、思想のみならず、通常意識されることの稀な作り手やプロダクションの側からもその豊かな系譜を展望できる機会として、好評を博してきました。

 戦後次々と誕生した個性的なプロダクションのめざましい躍進と、独立・自主製作への傾斜を強める作り手たちの動向を中心に取り上げる今回のプログラムでは、企業や団体によるスポンサード映画の市場拡大やスペクタキュラーな劇場用長篇記録映画の流行、とりわけ岩波映画が輩出した羽仁進、羽田澄子、時枝俊江ら新鋭監督の華々しい活躍、同社にあってPR映画の枠組に異議を唱えた黒木和雄、土本典昭、小川紳介ら「青の会」メンバーの実践、松本俊夫、勅使河原宏らによる前衛運動などを通して、日本の《ノンフィクション・フィルム》が迎えたそれまでにもまして激しい転換期をたどります。

上映スケジュール

■(監)=監督・演出 (製)=製作・企画 (原)=原案 (脚)=脚本 (構)=構成 (撮)=撮影 (編)=編集 (美)=美術 (録)=録音 (音)=音楽・作曲 (解)=解説・語り手 (出)=出演
■本特集には不完全なプリントが含まれています。
■記載した上映分数は、当日のものと多少異なることがあります。


D-1 1/9(火)3:00pm 1/13(土)1:00pm

岩波映画製作所:羽仁進[1](計89分)

数ある戦後派プロダクションの中でも、とりわけ多くのユニークな人材を輩出することとなる岩波映画──その創立メンバー羽仁進(1928~)は、映画経歴のない新人の採用を方針とする同社にあって、助手経験を積むことなく異例の監督昇進を果たし、「教室の子供たち」や「絵を描く子どもたち」の成功で一躍「岩波映画のプリンス」として脚光を浴びた。小学校の教室に持ち込んだキャメラを子供たちの視線にさらして好奇心が薄れるのを待つという大胆な方法で、かつてないリアリティーが獲得されたことはあまりに有名。隠し撮りにも演技にも拠らないキャメラと被写体との関係は、従来の記録映画作りの常識に大きな衝撃をもたらした。

雪まつり

(22分・16mm・白黒)

'53(岩波映画製作所)(監)(脚)羽仁進(撮)藤瀬季彦(録)桜井善一郎

教室の子供たち -学習指導への道-

(29分・35mm・白黒)

'54(岩波映画製作所)(監)(脚)羽仁進(撮)小村静夫(録)桜井善一郎

絵を描く子どもたち -兒童画を理解するために-

(38分・35mm・パートカラー)

'56(岩波映画製作所)(監)(脚)羽仁進(撮)小村静夫(録)桜井善一郎(音)和田則彦


D-2 1/10(水)6:30pm 2/2(金)3:00pm

岩波映画製作所:羽仁進[2]

(計111分)

羽仁進の登場は土本典昭をはじめ、後の岩波映画の作家たちにも多大な刺激を与えるところとなった。また「教室の子供たち」は文部省視聴覚教育課の担当官だった工藤充が映画プロデューサーへと転向するきっかけとなり、「法隆寺」(1958)にいたる羽仁とのコンビからは次々と話題作が生み出された。「双生児学級」は容姿の似通った一卵性双生児が、成長過程で見せるそれぞれの個性的な内面に照明をあてた作品。「動物園日記」では記録映画の伝統的な題材にも新機軸をもたらし、その主眼を従来の主流であった動物の本能から、人工的な生活環境に置かれた動物たちと飼育係の交渉へと移している。

文部省学術映画シリーズ8 双生児学級 -ある姉妹を中心に-

(39分・16mm・パートカラー)

'56(岩波映画製作所)(監)(脚)羽仁進(撮)小村静夫、今野敬一(録)桜井善一郎

動物園日記

(72分・16mm・白黒)

'57(岩波映画製作所)(監)(脚)羽仁進(撮)今野敬一(録)桜井善一郎


D-3 1/9(火)6:30pm 2/6(火)3:00pm

岩波映画製作所:羽田澄子[1]

(計71分)

1949年、「中谷研究室」と呼ばれた草創期の岩波映画に入社した羽田澄子(1926~)は、当初名取洋之助のもとで「岩波写真文庫」の編集をしていたが、羽仁進「教室の子供たち」の助監督などを経て「村の婦人学級」でデビュー、この作品は因習から脱しようとする滋賀県の婦人たちの活動を学校教育とのつながりで捉えたものである。その後は脚本・演出の両面において岩波映画の支柱の一人として活躍したが、中でも東京国立博物館企画の「古代の美」は、本物の埴輪を用い、躍動感あるモンタージュと巧みな音楽構成により古代人の生活を再構成した初期の代表作と言えるだろう。

*1/9(火)6:30pmの回では上映後、羽田監督よりお話をうかがいます

村の婦人学級

(26分・16mm・白黒)

'57(岩波映画製作所)(監)(脚)羽田澄子(撮)小村静夫(録)桜井善一郎

古代の美

(22分・16mm・白黒)

'58(岩波映画製作所)(監)(脚)羽田澄子(撮)藤瀬季彦(録)片山幹夫(音)矢代秋雄

風俗画 近世初期

(23分・35mm・カラー)

'67(岩波映画製作所)(監)(脚)羽田澄子(製)田中清広(撮)小村静夫(録)久保田幸雄(音)間宮芳生(解)丹阿弥谷津子


D-4 1/10(水)3:00pm 1/13(土)4:00pm

岩波映画製作所:羽田澄子[2]

(計85分)

多様な路線を持つこの時期の岩波映画において、羽田は羽仁進とならんでそのソフトな資質を最も優れてフィルムに定着した作家であろう。モンシロチョウの行動の謎を、テンポよく構成された複数の実験で明らかにしてゆく「もんしろちょう」は、「従来の、生態描写からぬけきれないでいる生物科学映画に対して、ながい間、不満をいだいてきた」という羽田の自主企画である。チョウの飼育も含めて2年がかりの撮影となったが、テレビ・シリーズ「たのしい科学」以来、科学映画ひとすじの牧衷が現場をサポートした。実際のチョウの行動は、脚本段階でのスタッフの予想を常に訂正するものであり、それによって撮影対象が映画作りのメソッドそのものを問うという斬新な形式となっている。

もんしろちょう -行動の実験的観察-

(27分・16mm・カラー)

'68(岩波映画製作所)(監)(脚)羽田澄子(製)(脚)牧衷(撮)関晴夫、根岸栄、岡田久(録)岡本光司(音)三木稔(解)黒沢良

狂言

(37分・35mm・カラー)

'69(岩波映画製作所)(監)(脚)羽田澄子(製)高村武次(撮)西尾清ほか(録)安田哲男

法隆寺献納宝物

(21分・35mm・カラー)

'71(岩波映画製作所)(監)(脚)羽田澄子(撮)西尾清


D-5 1/12(金)6:30pm 2/7(水)3:00pm

岩波映画製作所:時枝俊江[1]

(計93分)

日本映画社勤務の後、1950年に岩波映画に入社した時枝俊江(1929~)は1952年に「土と尿素肥料」でデビュー、さっそくローマ国際農業映画祭で銀賞を受賞した。やがて「幼児生活団の報告」(1953)を皮切りに幼児教育の映画に取り組み、映画作家としてのライフワークにもなってゆくが、隠しキャメラを使って4歳児の幼稚園入園から夏休みまでを記録した「ともだち」はこの分野を確立した一本である。また東京は国立の町に取材した「町の政治」は市民の直接的な政治参加の意義を訴えたもので、時枝の名を知らしめたばかりか、当時の同社のベストセラーの一つにもなったという。

*1/12(金)6:30pmの回では上映後、時枝監督よりお話をうかがいます

町の政治 -べんきょうするお母さん-

(32分・16mm・白黒)

'57(岩波映画製作所)(監)(脚)時枝俊江(撮)藤瀬季彦(録)片山幹夫

ともだち

(61分・35mm・白黒)

'61(岩波映画製作所)(監)(脚)時枝としえ(撮)藤瀬季彦(録)安田哲男


D-6 1/16(火)3:00pm 1/20(土)1:00pm

岩波映画製作所:時枝俊江[2]

文化大革命の始まった1966年8月から6カ月にわたるロケーションを敢行し、撮影フィルムが約8万フィートに及んだという「夜明けの国」は、北京、瀋陽、撫順、鞍山、長春、ハルピンを中心に、中国東北部の人々の生活を多面的に捉えた長篇である。観光映画にも定評のあった時枝にとって最もスケールの大きな作品となったが、プロデューサー高村武次は「紀行ではなく滞在記のもつ強さを出そうと考えた」と述べ、素材のリアルな表現を重視した時枝も、編集にあたって長いカットを選択しモンタージュを意識的に避けたという。東和映画の配給により劇場公開された。

夜明けの国

(110分・35mm・カラー)

'67(岩波映画製作所)(監)時枝俊江(製)高村武次(脚)吉原順平(撮)藤瀬季彦、渡辺重治(録)安田哲男、未村萌律喬(音)三善晃(解)伊藤惣一


D-7 1/11(木)3:00pm 1/20(土)4:00pm

長篇記録映画の展開[1]:大映

「カラコルム」や「マナスルに立つ」(ともに1956)など各社の劇場用長篇記録映画が人気を集めるなか、大映が発表した意欲作。日本アルプスに2年間のロケーションを敢行し、雄大な自然と動物の生態をイーストマンカラーで記録したもので、当時同社が配給元となりヒットした「砂漠は生きている」(1953)などのディズニー作品と比較された。監督には生物映画研究所を主宰する今村貞雄があたり、大自然の闘争を《再現》すべく多大な労力を割いたが、公開後に専門的な見地から日本哺乳動物学会が問題を指摘するなど、岩波映画の「ひとりの母の記録」(1955)とともにフィクションとノンフィクションの境界をめぐる論争の的となった作品でもある。

白い山脈

(78分・35mm・カラー)

'57(大映)(監)今村貞雄(製)永田雅一(撮)千石秀夫、島本義誠、中村政治(編)佐藤武(録)今泉松夫(音)斉藤一郎(解)財前和夫


D-8 1/11(木)6:30pm 2/8(木)3:00pm

長篇記録映画の展開[2]:岩波映画製作所

1957年の春から夏にかけて起きた谷川岳近辺の登山者遭難事故を、その原因から結果まで綿密に記録した作品。岩波映画にあって産業映画の路線を率いた演出家高村武次の、「佐久間ダム」3部作(1954-57)と並ぶ代表作である。この時期、製作を再開して間もない日活は、その興行網を維持するために岩波映画と配給面で提携し、岩波作品の日活系劇場での公開が次々と実現している。興行映画としてのドキュメンタリーを意識したこの作品は新たな演出の形を模索し、音楽の使い方や編集手法によってドラマの性格を強くする一方、犠牲者の顔を捉えたショットを導入するなど、記録映画ならではのインパクトも意図されている。

遭難 谷川岳の記録

(70分・35mm・カラー)

'58(岩波映画製作所)(監)(脚)高村武次(製)吉野馨治(撮)加藤公彦(編)伊勢長之助(録)片山幹夫(音)伊福部昭(解)今福祝


D-9 1/12(金)3:00pm 2/2(金)6:30pm

長篇記録映画の展開[3]:読売映画社

日本映画新社で堀場伸世が製作した諸作品を筆頭に、大自然や異文化の探検は劇場用長篇記録映画ブームの時代、最も人気のある題材であった。松竹の配給で公開された本作は、東京工業大学の西北ネパール学術探検隊に同行し、チベット人の風習や宗教を記録したもので、一妻多夫制の生活様式や消滅したと考えられていたボン教の実態、なかでも鳥葬の撮影に成功してセンセーショナルな話題を呼んだ。当時、キネマ旬報ベストテンで第9位に選出されている。

秘境ヒマラヤ

(78分・35mm・カラー)

'60(読売映画社)(構)(編)中村正(製)田口助太郎(撮)大森榮(録)大橋鉄矢(音)黛敏郎(解)小沢榮太郎


D-10 1/16(火)6:30pm 1/27(土)1:00pm

長篇記録映画の展開[4]:日本映画新社

(計98分)

放浪の画家の半生を綴る「はだかの天才画家 山下清」は演出家西沢豪の代表作であり、そのたおやかなタッチはこの時代の数あるドキュメンタリーの中でも異彩を放っている。紙の裏側に染みとおる油性マジックを使って絵の制作過程を示すその冒頭シーンには、同年に日本公開されたH=G・クルーゾー監督「ピカソ 天才の秘密」(再公開題「ミステリアス・ピカソ」)との同時代的な影響関係も指摘できよう。また、当時日本の最南端の地であった奄美諸島を舞台に、ある家族の生活を収めた「エラブの海」は、シネマスコープ(「日映スコープ」)による水中撮影に挑み、日本映画新社の、記録映画界の牽引力としての力量を示した。その試みは水中撮影の先駆者であるJ=Y・クストーの「沈黙の世界」(1956)も視野に入れたものであり、世界の水準とわたり合う仕事として高く評価されよう。

はだかの天才画家 山下清

(35分・35mm・カラー)

'57(日本映画新社)(監)(脚)西沢豪(製)堀場伸世、青木正吉(撮)白井茂(録)国島正男(音)松平頼則(解)河井坊茶

エラブの海

(63分・35mm・カラー)

'60(日本映画新社)(監)(脚)西尾善介(製)堀場伸世、青木正吉(撮)潮田三代治、日映水中撮影班(録)国島正男(音)小杉太一郎(解)小沢栄太郎


D-11 1/17(水)3:00pm 1/27(土)4:00pm

亀井文夫と日本ドキュメントフィルム

(計144分)

戦後、米軍基地問題とならび亀井作品の主要テーマとなった原水爆問題--その系譜上にあって第4回原水爆禁止世界大会と平和行進を記録した「鳩ははばたく」については、「モンタージュがプドフキンばりに凝ってる」という小川紳介の言が残されている。恋愛、結婚、出産、育児といった場面を通して命の美しさと尊さを訴えた「いのちの詩」は日本生命の企画で、PR映画の分野における亀井の業績を知る上で貴重な作品。その後、未解放部落問題へと切り込んだ「人間みな兄弟」は、人工衛星の打ち上げに見入る子供たちの表情を、根強く残る差別の実態と対照させている。この作品を境に、亀井は活動の場を専らPR映画に限定し長らく《沈黙》の時代を迎えることとなる。

鳩ははばたく

(44分・16mm・白黒)

'58(原水爆禁止日本協議会=日本ドキュメントフィルム)(構)(編)亀井文夫(製)(撮)大野忠(撮)菊地周、清水浩

いのちの詩

(40分・35mm・カラー)

'59(電通)(監)亀井文夫(脚)井手俊郎(撮)菊地周(音)長沢勝俊

人間みな兄弟 部落差別の記録

(60分・16mm・白黒)

'60(日本ドキュメントフィルム=芸術映画社=松本プロダクション)(監)亀井文夫(製)松本酉三ほか(原)杉浦明平(撮)菊地周(録)大橋鉄矢(音)長沢勝俊(解)宮田輝


D-12 1/17(水)6:30pm 2/9(金)3:00pm

坂斎小一郎と共同映画社

(計89分)

戦後の労働運動の高まりを背景に製作・上映活動を展開してきた労働組合映画協議会(労映)は、1950年10月、株式会社共同映画社に発展した。非劇場上映を中心とする配給企業体としてスタートを切ったが、「鳥島のあほうどり」を始めとする優れた文化映画の自主製作も行った。新興キネマ、同盟通信社、日本映画社と遍歴したキャメラマン坂斎小一郎(1909~85)が、多様な製作組織と連動しながら長く同社を率いた。

1952年メーデー

(16分・35mm・白黒)

'52(記録映画製作協議会)(構)(編)吉見泰(撮)植松永吉ほか

鳥島のあほうどり

(21分・35mm・白黒)

'53(共同映画社)(構)(編)田中喜次、川田潤(製)坂斎小一郎(撮)植松永吉(録)大橋鉄矢(音)福見潤(解)丸山章治

三池-たたかう仲間の心はひとつ-

(32分・16mm・白黒)

'60(総評=炭労=三池斗争現地指導委員会)(監)徳永瑞夫(製)川久保勝正(撮)清水浩、高尾義照、西森一義(音)長沢勝俊(解)藤間広一

小選挙区制

(20分・35mm・白黒)

'66(労農記録映画社)(構)(編)かんけまり(製)野原嘉一郎(撮)龍神孝正


D-13 1/19(金)6:30pm 2/3(土)1:00pm

日本映画新社:藤原智子

(計110分)

新理研映画「毎日世界ニュース」から日本映画新社に移籍した藤原智子(1932~)は、ユーモラスなデビュー作「オランウータンの知恵」で注目を浴びた。もともと美術史専攻であったこともあり、フリーになって以降も主に美術映画の脚本家として力量を発揮したが、とりわけ、企画者としても参加した松川八洲雄演出作「鳥獣戯画」は、7人のスタッフが自由な発想で絵巻物を解釈した、珍しい形式のコラボレーションである。

*1/19(金)6:30pmの回では上映後、藤原監督よりお話をうかがいます

オランウータンの知恵

(39分・35mm・白黒)

'60(日本映画新社)(監)藤原智子、山口淳子(撮)白井茂、坂崎武彦(録)木村勝巳(解)望月衛

ルーブルを中心とするフランス美術展より フランスの近代美術

(25分・35mm・カラー)

'62(日本映画新社)(監)山添哲(製)堀場伸世ほか(脚)藤原智子(撮)林田重男(録)国島正男(音)三善晃(解)岸田今日子

鳥獣戯画

(24分・35mm・カラー)

'66(七人の会=映像社)(監)(脚)松川八洲雄(製)(脚)藤原智子、富沢幸男(製)堀田正巳(脚)大沼鉄郎、杉山正美、杉原せつ(撮)瀬川浩(録)大橋鉄矢(音)間宮芳生(解)芥川比呂志

明治の絵画

(22分・35mm・カラー)

'68(日映科学映画製作所)(監)中村麟子(製)片田計一(脚)藤原智子(撮)佐藤登(録)草間善元(音)長沢勝俊(解)平光淳之助


D-14 1/19(金)3:00pm 2/8(木)6:30pm

小林米作と東京シネマ

(計89分)

我が国の科学映画ジャンルにあって、1954年の創立以来、顕微鏡撮影、微速度撮影の技術を極限にまで高めた東京シネマ。上映作品は十数年にわたり国際的な名声を欲しいままにした同社の末期を飾った傑作群である。岡田桑三(製作)、吉見泰(脚本)、小林米作(撮影)のトリオ解消後、ミクロ撮影の第一人者、小林は1967年に創立したヨネ・プロダクションで生命科学の分野に技術を継承し、東京シネマは1973年に東京シネマ新社として再出発を果たすこととなる。

結晶と電子 -エレクトロニクスと生体と-

(26分・35mm・カラー)

'64(東京シネマ)(監)渡辺正己(製)岡田桑三(脚)吉見泰(撮)小林米作(録)片山幹男(音)一柳慧(解)城達也

選ばれた乳酸菌

(18分・35mm・カラー)

'65(東京シネマ)(監)(撮)小林米作(監)渡辺正己(製)岡田桑三(脚)吉見泰(録)片山幹男(音)一柳慧(解)城達也

ヒトの染色体 -生命の秘密を探る-

(25分・16mm・カラー)

'66(東京シネマ)(監)大島正明(製)岡田桑三(脚)吉見泰(撮)豊岡定夫(録)片山幹男(解)篠田英之助

甦る細胞

(20分・16mm・カラー)

'67(東京シネマ)(監)小林米作(脚)浅香時夫(撮)武田純一郎、高岡成好(編)伊勢長之助(録)片山幹男(音)一柳慧


D-15 1/18(木)3:00pm 2/6(火)6:30pm

村山英治と桜映画社[1]

(計137分)

新世界映画社(戦中の朝日映画社)の解体(1949年)後、新理研映画に身を寄せていた村山英治(1912~)は、同じ芸術映画社出身の水木荘也とともに三井芸術プロを創立したのもつかの間、1955年には地婦連(全国地域婦人団体連絡協議会)の後援で桜映画社を創立し、戦後の社会教育映画にユニークな路線を開拓する。「アメリカの家庭生活」、「素顔のイギリス」といった海外ロケ・シリーズも、従来の観光的な取材から、中流家庭を中心にその生活や伝統的な規律に踏み込んだもので、同社の代表作となった。

アメリカの家庭生活 第1部・第2部・第3部

(91分・35mm・カラー)

'64(桜映画社)(監)(製)(脚)村山英治(製)大西雅夫(撮)小松浩、加藤和郎(編)沼崎梅子(録)岡崎三千雄(音)原田甫(解)川久保潔、小山田宗徳

素顔のイギリス

(46分・35mm・カラー)

'67(桜映画社)(監)(脚)村山英治(撮)江連高元(編)沼崎梅子(録)岡崎三千雄(音)間宮芳生(解)滝沢修


D-16 1/18(木)6:30pm 2/14(水)3:00pm

村山英治と桜映画社[2]

(計115分)

返還前の沖縄に取材し、女性たちの生活や教育をめぐる問題を浮き彫りにした「沖縄の母たち」、高まる婦人ボランティア運動を踏まえつつその意義を訴えた「婦人の……」は、《母親プロ》と呼ばれた桜映画社の本流に属する作品といえよう。加えて、1950年代後半にPR映画の製作に傾斜した三井芸術プロから引き継いだ文化・科学映画路線でも、日本の伝統文化を紹介した作品などで一時代を築き、「和菓子」「色鍋島」は、ともに8カ国以上の言語に翻訳されるロングセラーとなった。

沖縄の母たち

(30分・35mm・カラー)

'70(桜映画社)(監)大島善助(製)(脚)村山英治(原)霜多正次(撮)加藤和三(音)山内忠(解)奈良岡朋子

婦人のボランティア活動

(30分・16mm・カラー)

'72(桜映画社)(監)(脚)堀内甲(製)村山英治、大西雅夫(撮)村山和雄(編)沼崎梅子(解)杉田郁子

和菓子

(26分・16mm・カラー)

'65(桜映画社)(監)(脚)村山英治(監)(撮)木塚誠一(監)米内義人(脚)松川八洲雄(編)沼崎梅子(音)間宮芳生(解)久米明

色鍋島

(29分・35mm・カラー)

'73(桜映画社)(監)(脚)村山英治(撮)木塚誠一(編)長谷川宜人(音)長沢勝俊(解)観世栄夫


D-17 1/23(火)3:00pm 2/7(水)6:30pm

英(はなぶさ)映画社

(計137分)

昭和初期からアメリカの教育映画を配給していた高橋銀三郎は、1948年に英映画社を設立、間組との提携のもとに「佐久間ダム建設記録」(1955-56)を完成、その名を高めた。その後は「御母衣(みほろ)ロックフィルダム」などの産業映画の他、青山通春、金子精吾らの演出家を擁し、教育劇映画に特色を発揮している。「山かげに生きる人たち」はその路線を先取りする作品で、実際に炭焼きに携わる人々を訪れて記録した事項を元にドラマを再構成する手法が採用されている。

御母衣ロックフィルダム 第一部

(50分・35mm・カラー)

'61(英映画社)(監)河合邦治(脚)赤佐政治(撮)高木不二夫

山かげに生きる人たち

(51分・35mm・白黒)

'61(英映画社)(監)(脚)青山通春(製)高橋銀三郎(脚)西岡豊(撮)黒田清巳(編)宮森みゆり(録)田中義造(音)林光(出)加藤忠、眞木小苗、和沢昌治、野辺かほる、森幹太

日本の民家

(36分・35mm・カラー)

'62(英映画社)(監)(脚)赤佐政治(製)高橋銀三郎(撮)千石秀夫ほか(音)清水脩


D-18 1/23(火)6:30pm 2/15(木)3:00pm

学習研究社映画部

(計86分)

1955年6月、学習研究社(学研)は映画部を設立、教材映画の製作を始めるとともに学習図書の販売ルートを活用し、学校単位でセールスを展開した。「昆虫博士」の異名をとった石川茂樹製作課長を始め、スタッフが映画界と関係のない社内から選ばれたのもユニークな点である。やがて人形劇映画にも進出、視聴覚教育の運動が全国に浸透するとともに、東映教育映画部や日本視覚教材と並んで教材映画のブームを巻き起こした。

アリの世界 学習映画大系理科シリーズ

(18分・16mm・白黒)

'56(学習研究社)(構)伊藤治雄(製)古岡秀人(撮)清水ひろし(音)富士尭(解)青木一雄

こん虫の冬ごし 学習映画大系理科シリーズ

(12分・16mm・白黒)

'57(学習研究社)(監)(撮)清水ひろし(製)古岡秀人(構)石川茂樹(音)小沢幸四郎(解)青木一雄

おまわりさん 学習映画大系低学年シリーズ

(10分・16mm・白黒)

'58(学習研究社)(監)(脚)高綱則之(製)古岡秀人(撮)林伸好(解)田村淑子

学習映画大系シリーズ あさりの観察

(17分・16mm・白黒)

'59(学習研究社)(監)(脚)石川茂樹(製)古岡勝(撮)行田哲夫(音)斉藤高順(解)高橋和枝

特別天然記念物 尾瀬

(29分・35mm・カラー)

'62(学習研究社)(監)(脚)石川茂樹(製)原正次(脚)秋山智弘、岡田泰明(撮)清水ひろし、高綱則之(録)田中義造(音)林光(解)小池朝雄


D-19 1/24(水)6:30pm 2/13(火)3:00pm

日本シネセル

(計89分)

1962年6月、アメリカのシネセル・インターナショナルの子会社として出発した日本シネセルは、各界との広いつながりを持つ社長静永純一のもと、官公庁・企業のスポンサーによるPR映画を製作の中心にし、幅広い業種にわたって日本の諸産業の広報に努めた。「日本のさけます」は、サケやマスの人工孵化のメカニズムを大胆に掘り下げ、シネセルの名を知らしめた初期の秀作。また東海銀行の企画による「あなたも経営者」は、倒産寸前の中小企業をどのように立て直すかを劇映画風に解説した珍しい教育映画で、こうした視覚化の難しいテーマへの挑戦も同社のPR映画への積極的な姿勢を示している。

日本のさけます

(28分・35mm・カラー)

'64(日本シネセル)(監)(撮)稲葉直(製)静永純一(脚)渥美輝男(構)(編)樺島清一(撮)新藤忠、高橋陸夫、松浦毅(録)大橋鉄矢(音)小杉太一郎(解)城達也

あなたも経営者 -企業と資金-

(29分・35mm・カラー)

'66(日本シネセル)(監)菅家陳彦(撮)内田成雄

特別天然記念物 ライチョウ

(32分・16mm・カラー)

'67(日本シネセル)(監)下村兼史(製)静永純一(脚)(編)樺島清一(撮)伊藤三千雄、赤松威善、村瀬昭夫(音)三善晃(解)城達也


D-20 1/24(水)3:00pm 2/3(土)4:00pm

樋口源一郎

(計116分)

「真正粘菌の生活史」(1997)でその健在を誇り、世界的にも最年長の現役映画作家である樋口源一郎(1906~)。戦後は岩波映画、新理研映画などの会社で幅広い分野のPR映画に携わっているが、生物学者でもある樋口の真骨頂は、代表作「女王蜂の神秘」(松竹系公開)を始めとする一連の生物学映画にある。「声なきたヽかい」の撮影を通じてマツケムシの天敵であるアブの一種を発見したというエピソードにも見られる通り、生物学研究と映画製作との渾然一体となったその姿勢は数々の秀作に結実し、やがて自らの会社シネ・ドキュメントを設立することになる。

声なきたヽかい -まつけむしの一生-

(20分・16mm・白黒)

'55(三井芸術プロダクション)(監)(脚)樋口源一郎(製)三井高孟、村山英治(撮)後藤淳(録)金谷常三郎(音)福見潤(解)藤倉修一

社會科教材映画体系 ゆうびん

(18分・16mm・白黒)

'55(内外映画社)(監)樋口源一郎(製)加茂秀男(撮)木塚精一

女王蜂の神秘

(32分・35mm・カラー)

'62(桜映画社)(監)樋口源一郎(製)村山英治(脚)内木芳夫(撮)小林一夫(音)間宮芳生(解)川久保潔

生命の流れ -血液を探る-

(26分・35mm・カラー)

'67(電通=電通映画社)(監)樋口源一郎(製)(脚)八幡省三(製)西尾豊(撮)鈴木喜代治、山中真男、浅野勲(音)間宮芳生(解)宮田輝

微生物の実験 -基本操作-

(20分・16mm・カラー)

'74(シネ・ドキュメント)(監)(製)(脚)樋口源一郎(撮)伊藤硯男(解)山形定房


D-21 1/26(金)6:30pm

柳沢寿男[1]

日本映画社における教育映画部の解散、日本映画新社への改組(1951)後はフリーとなり、岩波映画などでPR映画を手がけていた柳沢寿男(1916~99)は、プロパガンダや企業宣伝に従属した記録映画作りに疑問を抱き、一転して自主製作の道を選ぶと福祉映画の製作に生涯を傾けることとなる。その新たな出発点となった本作は、滋賀県の重度心身障害療育施設「びわこ学園」で泊り込みの撮影を行い、「共同作業」を通して子供たちに現われる変化を丹念に捉えている。「カメラを持って参加し、その事で撮る側の考え方や行動がかわり、これを相手にかえしていく」、「いってこいの関係」という言葉に表わされているように、運動に参加した映画づくりの姿勢は、岩波映画出身の土本典昭、小川紳介の動向にも示唆されるところがあったという。

夜明け前の子どもたち

(120分・16mm・白黒)

'68(国際短篇映画社)(監)柳沢寿男(製)馬淵恭子、浴永三男(脚)秋浜悟史(撮)瀬川順一(録)片山幹男(音)三木稔(解)植田譲


D-22 2/16(金)6:30pm

柳沢寿男[2]

「夜明け前の子供たち」以来、柳沢寿男が手がけた作品は、1999年に死去するまでの間にわずか5本を数えるのみである。その2作目となった本作は、仙台市国立療養所で、進行性筋ジストロフィー症児の療養を記録したもので、数万人を対象に手紙で援助を呼びかけ製作資金を集めるという独特の方法により3年をかけて完成に至った。作品中、詩集を通して子供たちの心境を表現するアイデアは、かつて自らが記録映画作家を志すきっかけとなった亀井文夫の「小林一茶」(1941)から得られたという。

ぼくのなかの夜と朝

(100分・16mm・カラー)

'71(社団法人西多賀ベッドスクール後援会)(監)柳沢寿男(製)今野正己、浮田洋一(脚)(構)大沼鉄郎(撮)石井尋成、秋山洋、長田勇(録)大橋鉄矢(音)松村禎三(解)伊藤惣一


D-23 1/25(木)3:00pm 2/9(金)6:30pm

野田真吉

(計101分)

柳沢寿男と同様、戦前からのキャリアを持つ文化映画の監督、野田真吉(1916~93)もまた、戦後に生まれた様々な芸術グループや記録映画作家協会、その分裂に伴い発足した映像芸術の会への参加を通して自主製作の道を探り、従来の作風を大きく変えていくことになる。小型の16mmキャメラとフィルムの端尺で撮りためた長崎の風景からなる「まだ見ぬ街」、クラインの未亡人から提供された生前のプライベート・フィルムを素材とした「イヴ・クライン」、「オリンピックを運ぶ」(輸送経済新聞社製作)のアウトテイク(日の丸を付けたランニング姿でマラソンコースに飛び入った一般人の映像)を繰り返しつないだ「ふたりの長距離ゥvなどの実験的な傾向に加え、長野県下伊那郡上村下栗部落(遠山地方)の霜月祭に取材した「冬の夜の神々の宴」以降は民俗芸能の記録へと傾倒していくことになる。

まだ見ぬ街

(15分・16mm・白黒)

'63(監)(製)野田真吉撮因幡元光、上村龍一(音)一柳慧

モノクロームの画家 イヴ・クライン

(40分・16mm・カラー)

'64(美術映画協会)(構)(編)野田真吉(製)瀬木慎一(音)武満徹

ふたりの長距離ランナーの孤独

(9分・16mm・白黒)

'66(監)(製)野田真吉(撮)因幡元光、大須賀武

冬の夜の神々の宴 遠山の霜月祭

(37分・16mm・白黒)

'70(監)(製)(編)野田真吉(撮)長谷川元吉(録)野田純


D-24 1/25(木)6:30pm 2/16(金)3:00pm

勅使河原宏

(計102分)

勅使河原宏(1927~)が映画の世界に参入するきっかけとなった記念すべき第1作「北齋」は、本来瀧口修造、宮島義勇らが発足させた日本美術映画研究会の第1回作品として進行していたもので、資金難に陥り宙吊りとなったフィルムを引き継いだ青年ぷろだくしょんが新たな視点で完成に導いた作品である。その後勅使河原は亀井文夫の日本ドキュメントフィルムや、羽仁進らとともに結成した「シネマ57」などの活動を通して記録映画・前衛映画への関わりを深めていくことになる。「ホゼー トレス」は1959年に父、蒼風のアシスタントとして渡米して出会ったプエルトリコ系ボクサー、ホゼーの練習から試合までを独自の眼差しで記録した作品。また、安部公房作品を映画化した「おとし穴」、「砂の女」などの監督をはさみ6年後に撮影された後篇では、一躍プエルトリコの英雄となったホゼーに再会、世界タイトル戦の周辺に密着している。

北齋

(23分・35mm・白黒)

'53(青年ぷろだくしよん)(監)勅使河原宏(製)井川宏三(脚)(構)吉川良(撮)浦島進、長谷川博美、瀬川順一(編)宮森みゆり(録)山元三彌(音)清瀬保二(解)加藤嘉

ホゼー トレス

(25分・16mm・白黒)

'59(勅使河原プロダクション)(監)(撮)勅使河原宏(録)奥山重之助(音)武満徹(解)井川比佐志、矢野宣

ホゼー トーレス[ホゼー・トレスPart]

(54分・35mm・白黒)

'65(勅使河原プロダクション)(監)勅使河原宏(製)青柳哲(撮)マービン・ニューマン(編)守随房子(録)奥山重之助(音)武満徹(解)芥川比呂志


D-25 1/26(金)3:00pm 2/10(土)1:00pm

松本俊夫

(計125分)

日本の実験映画の草分け、松本俊夫(1932~)は新理研映画の「潜凾」(1956)でデビュー、その後「記録映画」や「映画批評」誌上で展開した批評活動は大島渚ら松竹ヌーベルバーグの作家にも影響を与えるところとなった。岩手県の山村と都会をつなぐ集団就職の実態を浮き彫りにした「春を呼ぶ子ら」は新理研映画退職後に手がけた最初の作品。総評の企画をショッキングな編集で構成した「安保条約」をめぐっては、激しい論争が教育映画作家協会を二分することとなった。「西陣」はドキュメンタリーとアヴァンギャルドの統合を唱えた松本が、被写体の情報価値に依存してきた従来の記録映画の方法から離れた画期的な作品で、この傾向をさらに押し進めE・サトウの写真から構成した「石の詩」は当時クリス・マルケルらの賞賛を受けたという。賛否両論を経て久々の作品となった「母たち」は、プリマハムの企画に自由に取り組みながら海外ロケを行い、各地の母子を即興的に撮影したシネポエムである。

春を呼ぶ子ら 進路指導シリーズ 回展望編

(21分・16mm・白黒)

'59(新世界プロダクション)(監)(脚)松本俊夫(製)(撮)上村龍一(音)三善晃(解)富田浩太郎

安保条約

(18分・16mm・白黒)

'59(日本労働組合総評議会=映画製作委員会)(監)(脚)松本俊夫

西陣

(25分・16mm・白黒)

'61(京都記録映画をみる会=「西陣」製作実行委員会)(監)(脚)松本俊夫(製)浅井栄一(脚)関根弘(撮)宮島義勇(編)宮森みゆり、守随房子(録)片山幹男、甲藤勇(音)三善晃(解)日下武史

石の詩

(24分・16mm・白黒)

'63(東京放送=東京テレビ映画)(構)松本俊夫写真アーネスト・サトウ(音)秋山邦晴(解)流政之

母たち

(37分・35mm・カラー)

'67(電通=藤プロダクション)(監)松本俊夫(製)工藤充(撮)鈴木達夫(録)片山幹男(音)湯浅譲二詩寺山修司(解)岸田今日子


D-26 1/30(火)3:00pm 2/10(土)4:00pm

岩波映画と「青の会」:黒木和雄[1]

(計120分)

「佐久間ダム」、「ひとりの母の記録」の助監督や、伊勢長之助の編集助手を経てデビューした黒木和雄(1930~)。東京電力横須賀火力発電所の建設記録である「海壁」と「ルポルタージュ 炎」は巨匠桑野茂の現場を引き継いだものだが、演出家自らが編集に携わって「現場」の思考を優先したことからも、桑野・伊勢に象徴されるような、現場と編集を分業する規範的な産業映画からの逸脱が読み取れる。M・デュラスの小説から題名を取ったという「海壁」ではコメンタリーを詩人飯島耕一に依頼するなどの試みもあり、この分野にも《作家の映画》の時代が始まっていた。

東芝の電気車輌

(20分・35mm・カラー)

'58(岩波映画製作所)(監)黒木和雄(脚)高村武次(撮)藤瀬季彦(録)金谷常三郎

海壁

(60分・35mm・カラー)

'59(岩波映画製作所)(監)(編)黒木和雄(製)小口禎三(脚)桑野茂(撮)加藤和三、館石昭(水中)(美)西大由(録)桜井善一郎(音)池野成、小杉太一郎、松村禎三、三木稔、原田甫(解)桑山正一

ルポルタージュ 炎

(40分・35mm・カラー)

'60(岩波映画製作所)(監)(脚)黒木和雄(製)小口禎三(撮)小村静夫(録)久保田幸雄(音)松村禎三(解)長門裕之


D-27 1/30(火)6:30pm 2/13(火)6:30pm

岩波映画と「青の会」:黒木和雄[2]

(計132分)

「ひたすら私はPR映画からの『逃亡』を暗中模索していた」という黒木が指向したのは、PR映画の製作そのものの否定よりも、その徹底的な《異化》の作業であったと言えよう。ミュージカル仕立てで、寺山修司作詞の主題歌がPR映画としての体裁をずらしてゆく「恋の羊が海いっぱい」、そしてA・レネの「二十四時間の情事」(1959)へのオマージュとして、男女の恋愛のテーマを北海道の産業や自然に託した「わが愛 北海道」はその意味で際立った作品である。やがて黒木を筆頭とする若手スタッフは「青の会」を結成、新たな記録映画の可能性を模索する中、「あるマラソンランナーの記録」では東京シネマ社長の岡田桑三と対立し、《スポンサード映画》と《作家の主体性》という避け難い矛盾が一気に噴出する形となった。

恋の羊が海いっぱい

(20分・35mm・カラー)

'61(岩波映画製作所)(監)(脚)黒木和雄(製)小口禎三(脚)羽田澄子(撮)清水一彦(美)朝倉摂(録)長谷川良雄(音)小野崎孝輔衣裳森英恵(解)大平透(出)ペギー葉山、岡乃桃子、及川久美子、久里千春

わが愛 北海道

(49分・16mm・カラー)

'62(岩波映画製作所)(監)(脚)黒木和雄(製)小口禎三(撮)清水一彦、渡辺重治(録)久保田幸雄(音)松村禎三(解)木村功(出)及川久美子、関口正幸

あるマラソンランナーの記録

(63分・35mm・カラー)

'64(東京シネマ)(監)黒木和雄(撮)江連高元(録)加藤一郎(音)池野成


D-28 1/31(水)3:00pm 2/17(土)1:00pm

岩波映画と「青の会」:土本典昭[1]

(計88分)

後の「水俣」シリーズ(1971~)で知られる土本典昭(1928~)は、1956年岩波映画に入社後、フリーに転向してから羽仁進の「不良少年」(1960)に監督補・編集として参加、「ある機関助士」の演出で注目された。鉄道の安全性をアピールしようとする国鉄の企画に対し、作家はまず機関助士の労働強化に着目し、撮影対象もその労働のディテールに集中しているが、とりわけ編集作業に重きが置かれている点が印象的である。また「留学生 チュア スイ リン」は千葉大学に留学中、政治運動を口実に学籍を抹消された英領マラヤの留学生の復学運動を記録したもの。当初予定されたテレビ放映が中止になったことから、プロデューサー工藤充の力を得て完成に至った。当時「水俣の子は生きている」など複数のテレビ番組の製作を抱えていた土本は、この作品に新しい製作形態を模索し、事態の展開に応じて遊撃的に撮影を進める「ベトコン式生産方式」を採用したと述べている。

ある機関助士

(37分・16mm・カラー)

'63(岩波映画製作所)(監)(脚)土本典昭(製)小口禎三(撮)根岸栄(録)安田哲男(音)三木稔(解)太田正孝

留学生 チュア スイ リン

(51分・16mm・白黒)

'65(藤プロダクション)(監)土本典昭(製)工藤充(撮)瀬川順一、瀬川浩、身内哲雄、黒柳満(音)三木稔(解)大宮悌二


D-29 1/31(水)6:30pm 2/14(水)6:30pm

岩波映画と「青の会」:土本典昭[2]

ロシア革命50周年に当たる1967年、日本海沿岸のナホトカから革命記念式典で賑わうモスクワまで、5カ月にわたるシベリア横断を記録した作品。「人間発見の旅」と位置付けられたこの撮影において、キャメラの視線は主に人々の表情の動きに合わされている。まずは8回のシリーズ物として東京12チャンネルで放映、この劇場公開版も東和系で配給される予定だったが、ソ連軍のチェコ侵入事件の影響で中止となった。土本はこの時期、他にも黒木和雄作品「キューバの恋人」(1969)の製作など海外に活躍の場を広げているが、その活動も「水俣で負った根源的な問いの棚上げの季節」であると自らの中では消極的に総括されている。またこの映画は、「カラコルム」以来続いてきた、日本映画新社=堀場伸世製作による一連の海外ロケーション記録映画の最終作としても位置付けられよう。

シベリヤ人の世界

(99分・35mm・カラー)

'68(日本映画新社)(監)土本典昭(製)堀場伸世、郡谷炳浚(撮)山口貮郎(編)太田百子(録)国島正男、安田哲男(音)三木稔(解)小松方正


D-30 2/1(木)3:00pm 2/17(土)4:00pm

岩波映画と「青の会」:小川紳介[1]

(計113分)

1960年に岩波映画と助監督契約を結んだ小川紳介(1936~92)は、黒木和雄らの助監督を務めるかたわら「青の会」に参加。習作として取り組んだ企業PR映画はいずれも不採用となり、64年の独立後に発表されたデビュー作「青年の海」は、青の会のメンバーが中心となって製作されたもので、岩波時代に助監督についた「若いいのち 法政大学の学生たち」(1963)からこぼれ落ちた通信教育生たちの姿を描いたもの。第3作「現認報告書」は、佐藤首相ベトナム訪問阻止闘争(第一次羽田闘争)で起きた京大生死亡事件の真相を検証したもので、この作品の完成後、三里塚(成田)に活動の拠点を定めた小川は、正式に小川プロダクションを設立すると、新東京国際空港建設反対闘争の渦中にある農民とともに「三里塚」シリーズの製作に着手、前例のない長期撮影を開始することになる。

青年の海 -四人の通信教育生たち-

(54分・16mm・白黒)

'66(「大学通信教育生の記録映画」を作る会)(監)小川紳介(撮)奥村祐治(録)久保田幸雄(解)和田周

現認報告書

(59分・16mm・白黒)

'67(岩波映画労働組合=映像芸術の会=グループびじよん)(監)小川紳介(撮)大津幸四郎(録)久保田幸雄


D-31 2/1(木)6:30pm 2/15(木)6:30pm

岩波映画と「青の会」:小川紳介[2]

「青年の海」に続き、高崎市立経済大学の学生闘争を記録した第2作。各地で学生運動が高まりを見せるなか敢えて自治組織の脆弱な新設の大学に的を絞り、学生ホールで生活をともにしながら、その追い詰められた疎外状況を運動の内側から見極めようとしたもので、新左翼系の学生を中心に圧倒的な支持を受けることとなった。「権力に迎合するようなスタイルとか言語構造とか映画認識ってのは切り捨てて表現したかった」という小川の言葉に表れているように、ディスカッションを重ねる学生たちの表情が執拗にアップで捉えられているほか、しばしばマガジンのフィルムを使い切ることも辞さない撮影には、後の小川作品を特徴づける長廻しの萌芽もみられる。

圧殺の森

(102分・16mm・白黒)

'67(記録映画『圧殺の森』製作実行委員会=自主上映組織の会)(監)小川紳介(撮)大津幸四郎(録)久保田幸雄(解)和田周